水も漏らさぬ論理整合性は、時には没理念的な成果主義以上にタチがわるい。「改憲派」「護憲派」そのどちらでもない氏の見解は、自己韜晦的なグレーゾーンを徘徊する。読んで気分の悪くなる本は幾らでもあるが、これ程、気が滅入るケースも珍しい。本書の著者は「隠れ改憲派」「気取った護憲派」等と、自認しかねない鵺的ないけ好かない確信犯でもある。正反合のアウフヘーベンが帰結するのは、ニヒリズムではない。西欧社会の病源にメスが入るのは、「現実が健康体であれば、それは理性の働きによる」−これを大前提とした弁証法によってである。
氏による敗戦国の病理の分析は間違ってはいない。病理の効用についても、それ程に穿った謬見とは言えなそうだ。延命、時間稼ぎ、特に疾病利得としての経済成長に関しては、事実その通りかも知れない。そればかりではない、我国の政党政治は、いわば人格分裂の段階で、英米の二大政党の人格対立による国家統合機能からは程遠い現状にあるとも言う。マッカーサーは戦後処理の第一声で、日本を12歳の子どもに見立てた。あれから60年、今や平均寿命に手が届きそうなピーターパンだが、孫の一人や二人は居ても可笑しくはないだろう。
安保と憲法、九条と自衛隊、一体何処に矛盾があるのかと著者は開き直る。果たしてこれが理性に準じた現実的な態度なのだろうか? 日和見主義の没国家的な自虐史観が一方にあり、寄らば大樹の陰の事大主義が白昼堂々と幅を利かせている。国威発揚と言う点で最悪の事態である。日本には全てがあるが希望がない、とは或る識者の言だが、悪魔の選択が希望を追放したとも考えられる。正しい判断をなおざりにし、唯々諾々と戦勝国に従って来た。その結果が、不釣合いで飛べない翼を持て余す、胴体ばかり大きな民意ではなかったか。
設問が間違っているのだから解答が引き出せないのは当たり前。著者の問題提起は別のところにあって、それが問題視されるまで現状のままでよいと言う。
一体、誰がその目隠しを外すのだろう? 苦情?あらどうしましょう。悪魔でも問題は九条だっつーの!
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