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日付:

 

2009/3/23

タイトル:
悪魔という救い
著者:

菊池章太

出版社:

朝日新聞社

書評:

 

 「ひとたび闇を見たものは、ずっとそれを引きずっていくだろう」
  購買動機はさまざまだが、店頭でふと手にした本のページを繰り、最初に眼に触れた一行でスッとレジに吸い寄せられた例はそんなに多くはない。逆説めいたタイトル「悪魔という救い」が暗示する世界は、この冷やりとするフレーズで底知れぬ闇から呼び覚まされ、クリスチャンでもないのに戸惑わずにはいられなかった。一体、この本は何処に私を誘い込むのだろう・・・と。

 欧米のカトリック教会では現在も尚、悪魔祓いの儀式はごく普通に行われているらしい。但し、非公開だが秘儀ではない。選ばれた司祭の手で医師ほか身内数名の立会いの元に行われ、儀式の様子はプライバシー擁護のため一切衆目に曝されることはない。関係者の体験記録か聞書きをとおして知るのみだ。本書は、学識経験豊な著者の文献渉猟によって、映画や小説がどれだけ真実に近い情報で作られているかを教えてくれる。ちょっとしたオカルト入門書ではあるのだが、「神を恐れることは知恵のはじまりである」と、わざわざ聖句を挿入するあたり、只ならぬ威厳を感じさせ、もしかしたら敬虔な信徒なのではないかという印象すら抱いてしまう。ちなみに冒頭のさわり一行は映画「エミリー・ローズ」で悪魔憑きの少女を命がけで救おうとした神父のセリフ。(彼は、良かれと思ってしたことが技術的な過信に過ぎないと知ったとき、法廷に立たされるのだが・・・。)この言葉の重い響きには、単なる遺恨には収まりきれない奥深い宗教的心情も感じられる。

 娯楽映画はハッピーエンドが鉄則で、これは興行成績にも拘る。ことオカルト物に関してはその限りではない。神への絶望と信仰の動揺、ひとの心の闇が悪魔の登場に欠かせない舞台である。真実の救いを求める信仰の世界にこの世の安逸は寧ろ妨げになる。そう簡単にレアリズムの枠を外すことは出来まい。悪魔憑きは厳しい神の試練であり、特に修道院の尼僧は恰好のターゲットとなる。悪魔の存在を信じなければ、神による救いもない。死はパラノイアの暴力的な帰結として忌避されるだけであろう。一粒の麦が希望の光となって輝く為に壮絶な闘いのドラマが演じられていたのだ。 超常現象を身近な問題として扱い神学的なテーマを語る恰好のテキストとして、「尼僧ヨアンナ」「エクソシスト」「エミリー・ローズ」の映画三篇が選ばれた。シリアスな著者のお墨付きを得たこの作品は、映画通のオカルト・マニアが認めるベスト・スリーでもある。

   一方、200頁余の小冊子に過ぎない本書だが、著者のホンネはもっと深いところにあって、読む者の心に深刻な問題を投げかける。誰もがこの世の悪を否定はしないが免疫を欠き、善行は時と場合による。このアンビバレンツに向き合わされながら、道義的な欠陥によるのか、悪魔の所業なのか決めかねている。そもそも社会的な合意が成り立たないのは楽園を追われた人類の原罪のせいではないのか、等と思い込む始末。複雑怪奇な社会現象は迷信と科学の未分化なアマルガムとして現れる。99%証明済みの科学的真実も、残り1%の不明な事実によって無効となるかも知れない。しかし、だからと言って100%信仰の世界をどう生きろと神は厳命するのだろうか。著者の紹介するマドレーヌ・ル=ブックと名乗る女性の生涯と奇跡が象徴的にそのことを語っている。以下はその要約。

 「或る不幸な魂が悪魔の力を借りてまで自己救済の願望を果たそうとしている」との病理学的な観点から倒錯者の妄想にメスが入る。その時、殉教者であると同時に患者でもあるマドレーヌは、このダブルバインドを自覚して乗り切るだろうか。医師の診断に従うなら、悪魔とともに神も存在しなくなり、彼女の快癒は信仰の死を意味することになる。これでは真のクリスチャンとは言えまい。どちらにせよ1%の疑いは狭い扉となって立ちはだかることだろう。最終章「救いのありか」には読み手の余韻以上のものはないかもしれない。希望という名の舟が繋がれているだけで・・・。シュラン神父が全生涯を賭けて心血を注いだ神学書から、エスキロールによって体系化され今日的成果として高い評価のある精神病理学まで、温厚篤実な著者の手になる悪魔学は「内なる完徳への確かな意志」を示す教会史ともなった。


  

 

 

 


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