愚かなゼロ。自分の生涯を、もし、こんな風に締め括れるとしたら、余程、天使的な性格の持ち主と言えよう。愛も憎悪も実にユーモラスに手懐けてしまうユートピアの住人、天野忠の余人の及ばぬ面目の全てがここにある。と言っても、別に褒めたことにはならない。ゼロは無限大だから、ほんの少し真っ当な風に晒されれば、誰でも貧乏底なしというわけだ。
だから、天野忠の場合、言葉の出来・不出来は、いささか食傷気味の自分自身との折り合いの付け方にしかない。仮令、鬼気迫る居直りがオブラートに包まれていようとも・・・。
「ゼロ風景」は見方によっては実に凄惨な怨念の風景となる。
すっかり亡びてしまうのだろうか
みんなゼロの寝床につみ重なって
なめくじのように
ズルズルと溶けていくのだろうか
後悔をじめじめと引き摺るさまは、なんとも不気味だが、
君が一滴の蒸留水であったり
僕が一筋の蚊取線香のけむり
であったり
みんなゼロの寝床で
と続くあたり、失意のトラウマが容易には癒されないことが印象付けられる。やはり、俗人として思いつく限りの恨み辛みを一応は書き留めなければなるまい。こうして現実との日記風の関わりが詩の大半を占めることとなるが、あくまでも、大空三昧のごった煮の材料としてである。
処女詩集「石と豹の傍にて」は、実にみごとなマニエラの宝庫であると同時に、現代詩としての水準の高さを示している。感性も頗るシャープなのだ。
今朝風景は火のように美しい。
実に速い水。
指にまつわりつく煙幕。
鏡は鏡の中で道を失う。
新月は逃げられない。
これら高踏的な詩句をパレットの絵の具のように混ぜ合わせて、レパートリーを拡げ、その息の長い創作活動の中から、田村隆一をして感嘆せしめた「動物園の珍しい動物」やら、最晩年の「音楽を聞く老人のための小夜曲」の傑作が誕生することとなる。
「問い」は天野宇宙を凝縮した核と呼べる一篇である。
サクラメント市の
インデアンアベニュの
A・ジャドソン氏の家の
地階にある物置場の
水道の蛇口の
ま下で
一日中
とつおいつ
なめくじが考えごとをして
いた
どうして
わしは
生れてきたか?
なにごとも為すがままに任せるとしたら、これ程の不思議はない。何はともあれ、生まれた場所を消失点として、宇宙大のまことに壮大な夢も同時に滅びるのだから。
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