「荒地」を再読した。数ある翻訳書の中で詩篇よりも注釈や解説に多くのページが割かれた本を手にしたのはこれが始めてである。原書出版当時、師匠のパウンドがこの長編詩にどの程度手を加えたかは不明だが、1970年代のニューヨークで「荒地―草稿ファクシミリ」となって出版された原本は私的なテーマ丸抱えの自叙伝に近いものだったらしい。正直のところパウンドの詩は難しくてよくわからないし面白みにも欠けるのだが、添削版「荒地」は文句なしに面白い。どちらも衒学的だが、あばら骨だけのパウンド本人の詩と違って肺腑がある。古代の英雄と等身大の主人公がホテルの部屋で煙草を喫し、お気に入りのシルクハットにステッキのいでたちで散歩に出かけ、敷石にしゃがみこんで枯葉を指で摘まみ上げ、ベンチで息を弾ませながら噴水と売春宿の窓を見比べている。このごくありふれた都市生活者の身辺雑記は、いわゆる古代叙事詩や浪漫派の抒情詩とは全く無縁な、風俗詩とも風刺詩ともつかぬ、奇妙なモチーフに突き動かされてせかせかしているが、霧のロンドンを徘徊する今様オデッセイの冗談まじりの長談義がこんなに面白いものとは誰も想像もつかなかったろう。今や、ポストモダンの神様として20世紀文学は「荒地」の詩人・エリオットなしには語れない。もう充分すぎるくらいユニークなこの原詩をネタにしてさらに面白く作り直し、我国の詩壇の度肝を抜いたのが西脇順三郎の「あむばるわりあ」である。「ロンドン帰りの芭蕉」と持て囃された一留学生の型破りな詩作法はパワフルで土着的だが、本家本元は同じ職人芸でもどこか病んでいる。恐らく新大陸から里帰りした詩的DNAとヨーロッパ文明を土産代わりに鞄に詰め込んで持ち帰っただけの極東の島国のそれではバイアスの掛かり方が違うのだろう。しかし、ご両人には時代を背負う前衛活動家として因縁浅からぬものを感じてしまう。
四月は最も残酷な月、死んだ土から
ライラックを目覚めさせ、記憶と
欲望をないまぜにし、春の雨で
生気のない根をふるい立たせる。
ランボーかディラン・トマスを思わせる冒頭のフレーズは原詩と対になってさらに輝きを増し、斬新な言葉で風通しのよくなった行間にはさまざまな音色を奏でるアイオロスの弦が張り回らされ、大団円を迎えるやナイアガラ瀑布のように文脈の渦はどっと雪崩落ちる。ストラヴィンスキーのバレエ「春の祭典」に霊感を受けた作品らしく絢爛豪華、見方によっては埃塗れの我楽多の山としか映らないが、和魂洋才の徒をして「覆された宝石のような朝」と讃嘆せしめたことでもあり、ピカソに代表される暴力的解体芸術もあれば、ぬけめない集音装置文化あり、呆気らかんとしたレディメイド(=女傑?)宣言もあり、良くも悪くも戦争と平和のコラボレーションが引き起こした20世紀のカンブリア爆発は美の表現領域を一気に増幅拡張した。そんな時代の代弁者として荒地の詩人・エリオット以上に相応しい人物はいないだろう。
全500行を超える本詩篇中、とりわけ圧巻な「最終章X 雷の言ったこと」からさわりと思われるフレーズをピックアップして書きとめてみた。
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ここには水はなく岩ばかり
岩だけで水はなくただ砂の道
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ここでは立つこともからだを横たえること
も坐ることもできない
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ただ雨を含まぬ乾いた不毛な雷鳴ば
かり
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せめて水の音でもあれば
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女が長い黒髪をまっすぐ引っぱって
それを弦にして囁きの音楽を奏で
赤ん坊の顔をした蝙蝠たちがすみれ
色の光の中で
きぃーっと鳴き、ばたばたと羽ばたいて
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善意の蜘蛛の巣が覆いかくしてくれる
回想録にも
人気のない部屋で痩せた公証人の
開く遺言状にも
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わたしはただ一度だけ鍵が
回される音を聞いた、
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帆と櫂に熟達した人の手に
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ぼくは岸辺に坐って
釣をしていた。
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以上が、「聖杯伝説」と「金枝篇」を下敷きにして<穏健なテロリスト>が用意周到に仕組んだ時限爆弾の発火装置の回路である。
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