ポンパ!と書いて些かも怯まず、ポンパッパ!とたたみかけ、ぐっと身を乗り出す。思うに強かな作家の業ともなれば、世間知を裏返しに着込むことなど朝飯前であろう。ポンパ!−これはフラメンコ・ダンサーの最終ステップとともにあがる歓声でもなければ、タイヤの破裂音でもなかった。人の口を点いて出た、一瞬、頭が真っ白になること請け合いの無意味な嬌声に過ぎない。或る小春日和に田舎道をバスに揺られながら、作者はあさっての方角にこの言葉?を聴き、記憶の断崖に突き落とされる。読者も数ページを繰りさえすれば物語の核心に巻き込まれ、吃音の主人公の奇行と片言綺語が織りなす、なんとも不思議な世界に向き合わされる筈だ。平凡なサラリーマンの意識の暗闇に蠢く非日常的で奇妙奇天烈なおぞましさ。その一方では事柄の逸脱が必ずしも観念的踏破に繋がらない現実の厳しさが控えている。主人公が作者(=話者)の血縁であることもあって、不条理の舞台の謎解きに、やりきれないシンパシーの糸が縦横に張り巡らされ、あの「介護入門」のモブ・ノリオのユニークな一回性さながら、風変わりな世界が展開する。
この類の作品が評家の言を当てにしていないことは最初からわかっている。書きたいように書くことで自立の尊厳は保たれるだろう。寧ろ、すっぱ抜かれでもしたら、達磨落としのような快感と落ち着きを作者自身味わうことになるかもしれない。それは兎も角、柵に囲まれたダチョウの足の運びに壕も意味があろうとは思われないが、巻末付録にアパートの六畳一間をぐるりと一回りする主人公の規則的なステップが図解されている。なんとも人を食った話だが、意味深長な呪術の儀式のようにも見えてしまう。アンチテーゼを繰り返すことが新たなテーゼの始まり、まるで袋小路のような救いようのないタブーの世界、「芥川賞」もとうとう来るところまで来てしまったようだ。この作品が恐ろしいのは、芥川賞自体にメッセージが憑依してしまうことにある。
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