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日付:

2010/10/02

タイトル:
バチカン・エクソシスト
著者:

トレイシー・ウイルキンソン/矢口誠(訳) 

出版社:

文藝春秋

書評:

 

 天地開闢以来、命令形にしか反応を示さないのが軍隊と悪魔である。司令室の遠隔操作による軍事活動にもはや昔日の面影はないが、神に叛いた我が物顔の堕天使をコンピューターで制御するのは難しい。知る人ぞ知る聖職者中の聖職者、神の代理人と言われるバチカン公認のエクソシストたちは、中世暗黒時代のこの厄介な申し子のいわば後見役であった。町全体がタイムスリップしたかに見える、オカルトの本場イタリアならではの有能なスペシャリストの活躍ぶりは見事で、ゴヤの描く魔界の住人からハリウッド映画よろしくアルマーニュでめかし込んだマフィアの一員に至るまで、神出鬼没のチャレンジャーに辣腕を奮う。これはしかし、信仰の原義に相応しいと言えるだろうか。百聞は一見にしかず、本書は新進気鋭の女流ジャーナリストが科学の眼を代行して鮮やかに捉え直した貴重な現場報告である。
 
 悪魔祓いは殆どの神学者にとっておぞましく容認しがたい事件として映る。しかし、オカルト思想は神学の奥義とは背中合わせだから、必ずしも荒唐無稽とは言い難い。それこそ神の存在証明そのものが悪魔抜きではさまになるまい。被造物が造物主に取って代わろうとする罰当たりな構図こそ人類がコンピューターの支配下におかれる近未来の予兆でもある。一方、イエス・キリストは歴史上紛れもない最初のエクソシストであった。その得難い権能がペトロほか十二弟子に与えられたことは福音書に明らかだ。又、時代がどうあれ<迷信>こそ詭計を企む悪魔の恰好の煙幕、いつの間にか無神論も神学も手の内におさめ、疑心暗鬼の人々を堕落の淵に追いつめてしまった。ちなみにヨブの試練に一役買って出たのはペルセベブではなかったか。証拠不十分どころか、異端の汚名返上には目前の扉を叩くだけでよい。さすがに正統派もリベラリストも領海侵犯と自家撞着をおそれて就かず離れずの状態なのだ。

 ともあれ、問題はサクラメントの非科学性と、<生か死か>の射幸契約に似た儀式の非人間性にある。本物の悪魔憑きは千に一つもないから、火に油を注ぐようにガセネタだらけのモノマニックな情報が風俗撹乱を煽り立てる。そもそも美食家の悪魔にしてみれば、極上のターゲットはそうざらにはないだろうし、食いついたが最後、滅多なことでは手放すまい。それに悪魔が悪魔に憑依した話など聞いたことがない。どう贔屓目にみても、大義名分から程遠いマイナーな世界である。口にするのも憚られ、実践となるとさらに耐え難い究極のアンビリバボーがここにはある。豪放磊落な本書の主人公・アモルス神父は聖母の国・バチカンでは敬愛措くあたわぬ一流人士。「悪魔はラテン語が苦手」−ファウストもどきのこんなセリフが彼の口の端に上るとき、粗野だが無教養ではないメフィストフェレスの姿が眼に浮かぶ。随所に鏤められた警句それぞれも捨て難く、悪魔憑きのチェック・ポイントと悪魔祓いのスキルに関しての卓見はとりわけ傾聴に値する。ここに登場するエクソシストたちの人間味溢れるエピソードは彼らの存在感を際立たせている。

  さらに著者は、かつて一過性の話題作に過ぎない映画「エクソシスト」が法王庁のお墨付きで空前のヒット商品となったことに触れ、ヨーロッパ全土を騒然とさせた「サタンの獣」ほか一連の凶悪犯罪事件を引き合いに出し、新たな問いを投げかけることで賢明な読者の知的好奇心を刺戟する。−これらは悪魔崇拝による血祭りの儀式なのか、単なる麻薬常習犯の殺人ゲームなのか、人々の深層心理に根を下ろし謎を深めるばかりだが、悪魔との命がけの直談判を概ね正義とした上でなければ、教会は権威をかけて報われぬ聖職者たちを顕彰したりはしないだろう、と。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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