間違いが二つ首を揃えたら、手を握らせてやれ。それは全く正しいことだから。これをしも決闘の美学とでも言うべきだろうか。それとも契約の精神? −西部の熱血漢ビリー・ザ・キッドの短い生涯を、あらゆる角度から、趣向を凝らして、丁度、狐を罠に追い詰めるように描き出したロマンチック・ヴァイオレンス。臨場感溢れるドラマが常に現在進行形であることも瞠目に値する。伝説の人、稀代のアウトローに自分自身を重ね合わせた作者の、これは、詩、写真、エピソード等々、文学的なガードを固めての渾身のコラボレーション。些かサービス過剰な中身にも拘らず、苦にならないのは、組み立てではなく瞬間が、形式ではなく事実が問題とされているからだ。
撃鉄から標的までの距離で、価値が推し量られる。丸腰でない以上、これは男たちにとっては自明の大原則。生き恥を曝すことを最も恐れる男たちでもある。その死に様がなんとも凄まじい。
しかし、それだけではあるまい。本当のところ作者は何が言いたかったのだろう。主人公に成り代るなら、それもいい。だが、<おれの人生、血まみれの首飾り>では、幾らなんでも取り付く島がない。唯の活動写真に終わってしまう。
さて、前述の<狐の罠>は、裏を返すとどうなるか。包囲網を突破する勇敢な兵士の行動原基となるだろう。しかし、各々の銃に装填された「ストイックな機智」が火を噴くとき、このアトランダムな一回性で、飛び交う弾丸の、どれが本物かなんて誰にも解りはしない。倒れた者を踏みつけ、砂塵をあげて飛び立つ者があるだけだ。とは言え、緊張の負荷によって、中心はおのずと決まるから、このドラマは宿敵相打つ二軸構造となって、グラグラと大詰めに雪崩れ込む。舞台の結構と言えばざっとこんな処だが、起承転結は二の次で、見方によっては実に粘っこい挑発的なコラージュでもあったわけだ。
こうして漸く本篇が、物語の<連続・非連続>を繰り返し受容しながら開放に向う、ポストモダンの歴史的な解体劇として用意されていたことに気づく。セイロンの植民地時代に裕福な地主の子として生まれたオンダーチェの、派手な暮らしぶりを彷彿とさせる作品である。
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