死に直面した瞬間、自殺者の脳裏には自分自身の全生涯が走馬灯のように駆け巡るものらしい。政治犯として捕らえられ間一髪のところで銃殺刑を免れたドストエフスキーの場合はどうか? 過去から未来への時間の流れが奔流のように逆巻いて悉く蕩尽されたことであろう。危うく一命を取り止めた彼のその後の執筆活動に於いて、永遠のバリエーションでもあるかのように無数の物語が同時進行し、脳裏に渦巻くことになるのだが、およそ体験を積み重ねて円熟する作家暦とは無関係な自由奔放な想像力は時も場所も選ばない。ちなみに本作品が初期・壮年期・最晩年のどの時期の作とも判明しがたいとしても不思議はなかろう。もう一つの傑出した小品、「永遠の夫」に登場する初老の男も<空想家>としての資質は充分なのだが、それこそ本作品の青年に決して引けをとるとは思われない。この<空想家>こそ、ドストエフスキーの世界を読み解くキーワードでもあった。
本書は、その匿名性故に存在感も薄く、虚しくペテルスブルグ周辺の風物に溶け込むしかない孤独な生活喪失者が主人公である。運命の女神のいたずらで、「白夜」に相応しい一瞬の生の幻影に飲み込まれる貧しいインテリ青年の恋物語は、厳めしい理論武装もロシアの広大な大地も必要としない、素顔のドストエフスキーならではの純愛のワンダーランドが面目躍如としている。己の分身と思しい少女との束の間の逢瀬の無邪気な広がりが、無邪気さゆえに現実の支えを持たず、時系列的な外形基準に負けて残酷な終わりを遂げる。無味乾燥な日常に一条の光が差したとはいえ、ほんの束の間、自力更生の夢は古都の片隅のはかない露と消える。しかし、そこには<希望>という名の自分の意思で輝きをおびる世界が待っていた。この希望こそ、結末の如何を問わず繰り返し形を変えて現われる恋愛のテーマであり、「罪と罰」でラスコリーニコフを改悛させる<聖痴女>、「カラマーゾフの兄弟」で親子間の争いの原因ともなった妖艶な<娼婦>等はその典型的なモデルである。いずれも社会の卑小な枠組みにおさまらないロシア的人格と呼んで、反骨の鬼才にしてヒューマニストでもあるドストエフスキーが生涯こよなく愛してやまなかった生の元型でもある。或いは誰よりも深く心に留めながら主人公のもとを去らねばならぬ少女はロシアの運命を象徴しているのかもしれない。
ドストエフスキーは希代のセンチメンタリストであった。悲恋は希望の堆肥となり、そこに溺れることなく創作の滋養分とすることで、偉大な思想にも転換しうる。それは又、コミュニストになるか作家になるかの分岐点とも言え、「白夜」は善悪が書き込まれることで展開する壮大なドラマを孕んだエデンの園でもあった。
|