先ずは「私流」であること。これがダンディズムの絶対条件であって、かくいう私にも固有のダンディズムがある。クールでやさしい食み出しもののエキセントリックな気晴らし、自分の姿しか写らない鏡を手に巷を闊歩するアウトロー。周囲には限りなく無関心を装う自己中心主義者だが、ひとを貶める利己的な卑劣漢ではない。いつもご機嫌な道義家先生のてらてら脂の乗った俗物根性や、したり顔の平べったい八方美人と較べてまさに対極の星である。有象無象が競い合う目的的な意味づけや、うざったい合意に背を向け、世の中をひとり睥睨するダンディズム。単なる外観ではない精神そのものが寸分の狂いもなく外観となった男の生き様がここにある。
元祖・ブランメルから映画でお馴染みのジェームス・ボンドに至るサクセス・ストーリー(?)のスマートな語り手は、文学的な手垢に塗れた定義を払拭し、服飾文化の牙城からさわやかな風を送り込む。知る人ぞ知る、ダンディこそは女性の宿敵、敵を愛せよとの御託宣でもあったのだろうか?その歯に衣を着せぬレクチャーは快い。ホンネと建前を使い分けパートナーシップを発揮しつつ、著者は名演技を披露する。まさに助演賞ものである。夫々が胸の透く好感度抜群のヒーローなのだが、取分けノエル・カワードを際立たせている。マルチな才能と傲慢な性格で優雅繊細に振舞う社交界の寵児は、著者の120%の身贔屓にも拘らずホモ・セクシャルであった。ともあれ、著者のユニークな鑑識眼によって脛に傷持つ男たちが次々と歴史に登場するのだが、その物語の結構は、世紀の恋人・ウィンザー公やマザコンのエドワード七世の人間臭いエピソードをピークに、味付けたっぷりの贅沢なオムニバス・ドラマとなって完成する。
ダンディズムは個と普遍の価値概念の相克と、階級闘争の歴史の狭間に鬼っこのように現れる。我国に特有の「粋」「傾き」の美意識と混同して語ろうにも、その反骨思想の違いは歴然としている。著者はそのことをあとがきで触れて、第三の視野から新・ダンディ考証学を提唱している。
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