清岡卓行氏は中国大連で生まれ、戦後間もなく本国に帰還。1970年に小説「アカシヤの大連」で芥川賞を受賞、文壇にデビュー。以後、小説家・詩人・評論家・翻訳家として、当時としては珍しいマルチな活躍ぶりで知られる。平易な日常語を駆使したユニークな雅文体が特徴だが、その表現の手堅さで、多くの読者の支持を得る。ちなみに清岡訳のランボーは「毒を抜かれた堕天使」のように大人しい。が、どの詩篇にも不思議に芳醇な色香が漂う。
何事につけ、善意の人であった氏は、読者にも恵まれ、その好感度も高い。殊に没年83歳を迎える辺りの数年間は、少年の日のはにかみが、今際の生を馥郁と波打たせているかのようだ。この断片的な回想記の出版話には、元々、若干の戸惑いがあったらしい。さすがにパワーの衰えは否定出来ず、確たる纏まりには欠けているかもしれない。しかし、作家人生の残余として葬り去られかねない滑稽な晩年に思い至るや、物書きの根性が突然、息を吹き返したと言う。寧ろ、生地のままの記述が、纏め上げることで失うことになるかもしれない<大切な何か>をメッセージとして残す、と思い直していた筈である。文中、「言葉の高い意味で」とか、二三の難解な表現に遭遇し疑問を感じる点もなくはないが、老化現象に起因する不整脈等では断じてあるまい。寧ろ未知の可能性を秘めた「固い芽」として解釈すべきであろう。目次と本文だけの本書には、本書それ自体が、彼の文筆活動の「あとがき」ともとれる重要な役割があるようだ。
モーツアルトの「ピアノ協奏曲第22番」(変ホ長調K.482)への共感によって、奇しくも結ばれたドイツ文学者・高橋英夫氏との若き日の友情。彼の著書「藝文遊記」に就いては、体験に裏付けられた、殊更、意味深長な筆使いもみられる。又、欧文脈に我国の詩形を馴染ませる先人の努力には並々ならぬ敬意を表し、堀口大学の訳詩業に第一等の
高い評価を与え、当時、ヨーロッパ通としてその名を知られた河盛好蔵にも多くのページを割いている。分けても、戦時下の言語統制にも拘らず、現代詩の地平を切り開いた金子光晴のエピソードは感動的だ。そんな彼を通して、「詩人の中の詩人」荻原朔太郎像は濠も疑い得ないものとなり、我国でただ一人世界に誇る天才として、彼の審美眼の頂点に位置することとなった。
さすがは、昭和詩の体現者にして最後のご意見番でもある清岡卓行氏である。氏の炯眼は生涯を通して変わることはなかった。
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