考古学上の新事実が、聖職者の息の根をとめたと言う話は聞かない。信仰が教会のドグマに深く根を下ろして咲いた花なら、その毒性が弱まれば枯れ萎む。ハイテクを駆使した聖書解釈がどれだけ進もうとも、この事実に変わりはない。歴史的な大発見も聖書学者たちが角突合せて一時色めいただけだった。門外漢だからか、著者はあえて大胆な仮説を立ててキリスト教のタブーに挑戦する。どうやら「ダ・ヴィンチ・コード」のひそみに倣い、名画「最後の晩餐」の暗号解読に弾みがついてのことらしい。
「聖書」は神ならぬ人の手で書かれたもの、不肖の弟子たちが額を寄せ合って編み出した稚拙な説話集である。むしろそう考えた方が不整合なイエス像もいっそのことおさまりが良い。自家撞着だらけの中身の釈明にもなるだろう。事実が知りたければ、先ずは聖書の目的が何なのかを問い、そのためにどんな方法がとられたかを検証すべきである。その上での推理なら古文献踏破も勇み足ということにはならない。赫々しかじかの発想から結論まではほんの一歩、眼の先判断に過ぎないなどと誰が言えるだろう。事実と空想は往々にして背と腹の関係でしかないのだから。
政治色の強いキャンペーンが鼻につくだけで、民族決起の書と決めて懸かるほどの目方もない。大上段に振りかざした使命感も安手の代物である。ただし、パウロの予見性に富んだ改心といい、ペテロの用意周到な告白といい、どのページにも激しく息づく過剰なまでの個人的な熱意が、図らずもキリスト者の精神を代弁してしまったようだ。これこそ誇り高い民族をして世界制覇の大業へと突っ走らせたのだが、編纂者の目論見を遥かに凌駕してのことであろう。ところで、本書がユニークで真に興味深いのは、強みも弱みも知りぬいた天敵同士が主導権争いをする、笑うに笑えぬ人間臭さがテーマになっているからだ。
それではざっと本書のおさらいをしてみよう。
圧倒的な存在感を誇示するパブテスマのヨハネの不慮の死によって、エッセネ派の理論的支柱に過ぎないイエスが代役として担ぎ出され、自他共に不本意な活動に終始する。イエスの態度言動に業を煮やしたスポンサーのペテロが受難劇を演出し、架空の人物・ユダに罪を擦りつけ、裏切り行為の辻褄合わせをする。まさしくペテロこそ「この人なくては聖書足り得ない」涙ぐましいまでに渦中の人であった。もしかしたらこれも茶番劇の一つに過ぎず、<愛人のいる義賊とその一味><妻子持ちの革命家とその同志>等と、観客によってはカメレオンのように書き換え自在な舞台の上に、著者の限りなく醒めた目が次の書割を用意しているのかもしれない。
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