ご存知無頼派の詩人・正津 勉による久々のエッセー。脱力というユニークな視点にこの人らしい世界観がある。ひとは構えを捨てたときこそ真実の姿を現す。Let it be...
弱いものは弱いままに。だが、脱力は資質を問われる。一面、鼻白む思いがするのもそのためだ。脱力にはナイーブな感性ばかりではなく勇気も必要とするのではないか。ポテンシャル・ゼロの放心状態ではないのだ。
あおじろい水をくむ
そのかおは岩石のようだ
かれの背になだれているもの
死刑場の雪の美しさ
ひとすじの苦しい光のように
同志毛は立っている
谷川 雁「毛沢東」
生来が薄志弱行の人だから、全学連シンパで御三家のひとり、谷川 雁との最初の出会いは不幸であった。頂点にして原点のこの神様の膝元からいきなり脱落して、糸の切れた操り人形のように無為徒労の人となる。そんな自分を笑い飛ばすことから与太話は始まっている。
へぼな生活人の複雑な触手を動かして、自ら範とする先輩諸兄を引き寄せる。そんな中で「世にも恥ずかしい微笑をした」奇人との出会いには運命的なものがあった。当時まだそれ程知られていない詩人・天野 忠だが、たまたま手にした詩集一冊に「はんなり」と「いけず」の絶妙に相和した京言葉を発見して狂喜する。これぞ仙薬と自家中毒気味の嵌りよう。酒仲間の誰彼となく、負の勲章を褒めちぎり、河岸を変えてはまた褒めちぎる。我が世の春はこの一点に定まった感がある。まるで水を得た魚のようだ。そういえば脱力とは水に浮かぶ方法でもあった。
批評とは他人をダシにして自分を語ることだ、と小林秀雄が居直って以来、曲者があとを絶たない。だが、高座をおりた義理人情にも厚いこの人、朋友の懐で自分の来歴をひたすら正直に温めている。忘れがたい交遊の礎には必ず天野大明神と刻まれていた筈である。ちなみに彼の「りんご」の詩を採りあげて、
黒ん坊のウイルメイズの
台所に
ほんのちょっぴり 陽がさす
りんごが一つ
頭の腐りかかった奴なんだが
あいにく そこに
陽の舌がじゃれつく
りんごが怒鳴った
−どいてくれ 痒くてたまらんよ
そこんところが
−辛抱おしよ
陽の舌が云った
−好きでしてるんじゃなし・・・.
上手い。舌を巻く。手練だ。ともう、手放しの褒めようである。もしかしたら、この感激家は並外れた精進の人ではないのか。その証拠に彼は伝説の俳人・鈴木しづ子の身も世もない追っかけであった。わざわざ一章を割いたリポートもあり、これが中々の圧巻なのだ。
本書は脱力の指南書として最適である。だが間違っても解脱の書ではない。
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