無感動なデジタル化の波に覆いつくされ、人々の心の壁は厚くなるばかり、感性も鈍磨してしまった。ふとした誤作動が原因で、いつ、世界が息を詰まらせるやも知れぬ。そんな白々しい時代だからこそ、天才ピアニスト、フジ子・ヘミングは一際、光彩を放つ。
間違ったっていいじゃない。
機械じゃないんだから。
鍵盤の最初の音が人間性を丸投げにする。小枝を折るだけで恐怖に包まれるメルヘンの森。自分の影に怯えながら、スポットを浴び続ける奔流の花のような舞台。いつの間にか我も人も感動の渦の中にある。彼女の演奏たるや真に「没我入神」、−些か大袈裟だが、実にぴったりの表現だ。彼女の魂の音色は彼女にしか引き出せないし、この体当たりの演技に理論武装は要らない。今般、アカデミズムに屈する凡庸な芸術家のなんと多いことか。それに引き換え、彼女の個性のなんと強靭なことか。彼女のエッセーは、そんな音楽への熱い想いを語っている。
幼い日々の藝術的な環境も、家庭的な温かさには欠けていた。両親の離婚によって、経済的な破綻に直面し、半生に亘り辛酸を嘗め尽くすことになる。同じ道を志す母とは生涯そりが合わず、愛よりも寧ろ、憎悪によって深く結ばれ、無責任な父を遠目に見ながら、才能にのみ生き甲斐を見出す。それは口で言うほど生易しいものではなかった。躊躇い、踏み外し、当惑しながら過ごした長い不遇時代。終始一貫して無防備であった彼女の悪戦苦闘ぶり。それらが彼女の美質を際立たせ、彼女は只管、鍵盤の上の愛に燃えた。それは其の侭、観客と魂を共有する感動の場ともなった。全てはそこに始まりそこに終わっている。まるで格闘技の女王のように、汗と拍手喝采に輝きながら、音楽そのものとなった人生が、舞台の前面によろめき出る。
棲めば音楽の都、ベルリンから東京へ、苦節30年の華々しい成果を持ち込み、もう何処に居ても違和感を感じない。洋の東西は、いわば両耳のようなもの、彼女のショパンを正確に聞き分ける。リストもラフマニノフも、記譜以前の手掴みの音で伝わる。生活信条にグレーゾーンのない「絶対音感」の持ち主、その天性によって、厄介だが爽やかなエピソードには事欠かない。武勇伝あり、恋あり、人情話あり、法廷では「貴女は素晴らしい方ですね」などと労われた勲章付きの勝訴もあった。
彼女にはカラヤンやバーンスタインに向けられた、誇り高い音楽家としての眼差しがある。それと同時に、孤児や捨て猫に寄せるナイーブな心情的側面も。そのことに関しては彼女自身の記述によらなければ誤るだろう。後半に絵日記を配した、この愛すべき自叙伝は、最後にこう結ばれている。
「カラヤンやバーンスタインとの夢のような楽しい思い出も書きたいと思いました。わたしとカラヤンの間、またはバーンスタインとわたしの間につながった電流のような奇蹟とも言える感情は、言葉や文字では到底表すことは出来ないのです。(中略)
この本はわたしの物語りです。
だから、猫や犬にだけ知ってもらいたいことは、うやむやな結果になっているはずですから、どうぞわかってください。」
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