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日付:

2010/11/4

タイトル:
富士大石寺顕正会
著者:

下山正恕 

出版社:

日新報道

書評:

 

 「触らぬ神に祟り無し」を逆手にとり、一千万信徒を巻き込み、巧妙な政治工作で野望実現に体当たりした男がある。しかしその内実は、肥大化した組織の詐欺まがいの延命策でしかなかった。心ある人の眼には空っぽの中心から吹き荒れる一過性の台風のようなものとしてしか映らないのだが、それこそ当事者の存命に拘る一大事で、その背後には<正本堂の誑惑>として表面化するオーパーツのようなシークレット・ドクトリンがあった。前代未聞のエクソダスの群れに眼前の海は開かれず、天母山(あんもやま)に悲願のUFOは飛来しなかった。要するにスケールばかり大きい出鱈目な気分に終始したことになるのだが、内部告発者側の執拗な諌言によれば師敵対の御遺命違背ということになるらしい。それかあらぬか丑寅の勤行の最中、大石寺大客殿の天窓が二度におよぶ強風に見舞われ大破した。まさに「風は是れ天地の使なり、まつり事あらければ風あらしと申すは是なり」の文証通りの凶兆もあったようである。それもこれも、ユートピア化して燃え尽きる正論と数の原理で動く金権腐敗の一場の幻夢として看過されがちな内部抗争、野次馬根性を刺激するだけで、「どちらが勝っても宗門の恥じ」の典型に過ぎないのだろうか。

 当然のことながら「斬った、斬られた」は生身の人間同士の話である。相手が妖怪では全く意味をなさない。藤原弘達から美濃周人まで、程度の差はあれ、この種の論争で生傷が絶えないのも、そもそも問題の拠って立つ所以が人間の弱さにあるからだ。いつのまにか弱さの描くまぼろしに翻弄されて足元を奪われ、自らが妖怪変化となってしまう。そんな凡夫の悲しさを諌めるためか、経本には「唯仏与仏 乃能究尽」とあるではないか。本書はかねてより巨大集団の動向に不信の念を抱いていたフリーライターが宗門論争のダークホースとみられる「顕正会」に入会、そこに大義を見出し書き下ろした渾身のリポートである。さて、読者諸兄の見識如何?恐らく読後の余白にミイラ取りが木乃伊になったとはそうやすやすと書き込めまい。その一方で、幾らかの善智識さえあれば、釈迦力は消えうせ、望遠鏡を逆さに覗き込むが如く、気の遠くなる世界が現出していても可笑しくはない。どれもが正しくどれもが間違っている。それが一般論というものであろう。しかし、だからと言って、彼らの価値観が相対化されはすれ、身もふたもなくなるわけではない。

 では、ここで設問を一つ。「円は外延か内円か、それとも境界線のことだろうか?」その正解は多分こうなる筈である。―「形に拘ればどれもが正しい、だが事相で捉えた場合はすべて間違っている」と。磁石の針が必ず北を指すように、磁場の発生によって砂鉄は中心に向けて渦を巻く。顕正会のスタンスは「内得信仰」、その時が来るまで、この「磁性」を失わずにいて欲しい。彼らの真摯な態度を感じるにつけ、そう願わずにはいられない。「時機教国」の理を外れ 誤った教義を背景としたデマゴーグによる大衆操作、権威主義と同調圧力で暴徒化した巨大組織にノーを投げかけた勇気を買おう。

  
 
 

 

 

 


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