そもそも哲学とは<背理法>で思考の枠組みを壊し続ける困難な作業であった。このメタ言語操作は文化遺産を運ぶ手押し車のように坂道の急勾配でもないのに加速される。無と全体の<間>、さらに言えば1と2の<間>を埋める作業に戦慄を覚えることから哲学は始まる。「完全性定理」で古典哲学の完璧な部屋の模様替えを終えてドアノブを廻し、さて、外出の目的は?と想い廻らしたのが「不完全性定理」である。アリストテレス以来の天才と呼ばれ、アインシュタインも一目措いていたゲーデルだが、「神の存在証明」で周囲を驚かせた最晩年には、なんと体重30キロと痩せ衰え、精神も極端に不安定だったという。学理追求に専念した誠実な生涯ならではの哲学的帰結とも言えよう。老成したミームは絶えず受け継がれることで若返る。「不完全性定理」もその例外ではない。それにしても神が存在することと「神の存在証明」は別のことではなかろうか。何故なら、彼の死後、オリジナルのコピーでしかないメタ「不完全性定理」が内的進化のヴァリエーションでもあるかのように不特定多数に委ねられたのだから。
ニーチェは神が退屈しのぎをするために滑稽な生死を繰り返す人間を創ったに違いない、と半ば腹立ち紛れに挑戦状を叩きつけた。私たちは、この「永劫回帰」の真意を誤解してはいないだろうか。人間が不死身なのは神の身代わりとなったからである。「超人思想」は神への長文の弔辞であり、天国へのパスポートではない。複雑多義で曖昧な言語を記号化することで数値的解を得る方程式、アインシュタインはその正当性を自認して「神はサイコロ遊びを好まない」と語った。現代科学の生みの親にとって、手の混んだマニュアルで不老長寿の薬剤を調合するニーチェは、さだめし不気味な魔法使いと思えたことであろう。迂回路を遮断しアナロジーの鉢合わせで言語を爆発させて近道を通り抜ける。遠い関係ほどパワーを発揮することになるから、このやり方では真理は断片的で、それも窓からではなく、言語の壁を崩して傾れこむことになる。それがニーチェの得意とする箴言と考察であった。
過ぎ去ったものはすべて、徒の風であり、こころに残るものにしか真実の光はあたらない。だが、ひととして生まれた以上、誰しも周辺の蟠りが波紋を描いて消えていく忘却の淵に置き去りにされることはあり得ない。ゲーデルの最愛の妻は場末のキャバレー出身の貧しい女性だが、この些か常人離れのした世界的な哲学者の良きパートナーでもあった。彼女は最終講義を聴き終わって講壇に駆け寄り「クルト、あなたの講演が一番素晴らしかったわ」と賛辞を惜しまなかった。真実は、泥の深みから浮かびあがる睡蓮に似て、思いもかけぬ感動的なワンシーンとなってあらわれる。その昔、「私は嘘つきである」という悪魔的な命題で自己言及の罠に嵌り自殺した哲学者もある。それとは対極のこんなにも幸せなカップルがあることを教えてくれたのもまた哲学であった。
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