本書のテーマである「反・現実」と「現実」の往還に関しては、既に梅原猛の主要な著作類に詳しい。彼は1%の懐疑を差し挟む自損行為によって、宗教的悟達から哲学体系にシフトし、民俗学の諸項目を援用しながら世界観を樹立する、そんな離れ業をやってのけた。一方、ポストモダーンの模範解答間違いなしの社会学的アプローチで抹香臭さを払拭したのが本稿である。どちらの方法論が当を得たものかは、近頃、眼に余るその輩出ぶりはなんとも不気味だが、言わずもがなの講壇哲学に飼い馴らされた猫にはニャンとも言えまい。何れにせよ、この優れて今日的なテーマに向き合わされるとき、単なる事実の解釈にではなく、創造的な活動の場に立たされることになる。
戦後50年に亘る思考白書とでも呼べそうなこの学際的リポート、迷路のような思考回路に導かれ、屡、装飾過多な門の前で立ちくらむのも、読者自身の過剰反応がオーバーラップしただけで、勇み足のせいではない。一読、大澤フリークとなるむきも多いことだろう。
表題の「現実の向こう」とは、偶々、オーム真理教の悪名高いサティアンであり、松本清張に記号化された「砂の器」の残影であったりするのだが、著者は社会学者としての律儀な姿勢を最期まで崩さない。なにはともあれ、現実の向こうはこちら側の問題であり、誰もが例外なしに当て嵌まる状況に程度の差があるに過ぎない。ちなみにオームの自己隔離の習性はキリスト教の「隣人愛」で矯正可能なようだが、病鴻毛の教団内部には大澤教授の精緻な分析が必要であった。ところで善悪の彼岸に立った最終解脱者の声と言えどもヘッド・ギアの耳にしか聞こえはしまい。仮にサリン事件が「虚構の時代」に深刻な問題を投げかけ、分厚い煙幕に包まれなければならなかったとしても、「理想の時代」のゴースト・プランや「第三者の審級」の無権代理行為が許されるわけがない。神が裸足で上がり込んだら何も遠慮するには当たらないではないか。しかし、ドクター大澤は意表を突いた処方箋を差し出す。靴を履かせてお帰り頂きましょう、と。結局、毒にも薬にもならない屈折した心情で相手の肩を叩くのがオチ。大事なことは以心伝心、生まれつきの資質で決まることなのかも知れない。
となると、誰一人として現実の向こうに忘れたものを想い出せないでいる。ユダの裏切り行為が二重に鍵を掛けたのも、その記憶の部屋ではなかったか。
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