近頃、身近な問題としてクローズアップされ始めた宗門抗争は「本尊と血脈相承」観に集約される。ちなみに門外漢のテキスト中心主義は仏法とは別次元の釈迦仏教となるらしい。それは生活原理と生活習慣の違いとなって現われる。ところで、当事者間で師弟関係を重視するセクト主義の一体どれが本流なのか素人には皆目見当もつくまい。本書が説得力を持つのは現役のフリー・ジャーナリストである著者が、日蓮正宗・大石寺の内部事情に詳しい創価学会の幹部でもあるからだが、毀誉褒貶の激しい池田大作の擁護にはこのような捨て身の自然体こそ相応しいのかも知れない。
シェークスピアの四大悲劇の一つ「オセロー」ではイアーゴの奸智が人格高潔な武将を破滅させたが、権謀術数に長けた山崎正友の教団破壊工作は傑出した希代の人物像を却って不動のものとし、獅子身中の虫となって食い荒らしたのは頑迷で脆弱な法主の基盤であった。いわば三つ巴の壮絶なお家騒動なのだが、逆説的に法華経を保つ者には鬼神も力となる御書の精神が裏書された恰好となった。それにしても、己の才を驕る俗流エリートが欲望の限りを尽くし弘法の士の足下に踏み躙られる姿は哀れだ。
ともあれ、広宣流布に邁進する貫主・会長の蜜月時代が国立戒壇の踏み絵によって終わりを告げ、魑魅魍魎の暗躍する「暁闇」を迎えたわけだが、大悪は大善の前兆とか、三千世界の中心からお題目が響き渡るのも間近なのかも知れない。「時を待つべきのみ」の謹言を忘れ勇み足となった感あるも、件の泥仕合の元凶は根本教義からの逸脱、慎重な著者は王者の道に伏兵の矢が放たれたことに就いては一言も触れていない。だが、義賊「顕正会」の抵抗勢力を蔑ろにした文脈の一人歩きは問題の根を深くするばかりではなかろうか。在家・出家の役割分担が偶々齟齬を来たしたに過ぎないとしたらどうであろう。学会側の主張する「遠離塔寺」の法難が我田引水の美辞麗句でなければよいのだが。
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