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日付:

2004.9.8

タイトル:
ハムレット
著者:
ウイリアム・シェイクスピア
出版社:
新潮社

書評:

 (プロローグ)

 量子力学によれば究極の物質概念はゲシュタルト分析のようなものになると言う。問題のニュートリノ、波か粒子かは念の写像に過ぎないのだそうだ。心霊現象をまともに援護することにもなり兼ねないこの学説。しかも奇妙なことに、実験箱の中で死んだ筈の猫が生きていたらしい。この分なら仮説か状況のどちらかに責任を擦りつけて、当分、定義は見合わせた方がよさそうだ。人を煙に捲く理論は芝居小屋に任せるのが一番。

 話変わって、我が愛すべきハムレット殿だが、是が頗る難しい性格の持ち主で、作者自身、我慢の緒が切れて、或時、愛想ずかしをしたような節もある。初演が混乱を極めたとの考証が幾つあっても一向に可笑しくはない。処で、両親の夢を台無しにした手におえないこの放蕩息子。それでものうのうと生き永らえて来たのは借金を踏み倒されまいと背後からがっちりと債権者に手足を固められていたからではないか?と思われる。

 本題に戻ろう。さっきの化け猫騒動を劇場効果にみたてたのがそもそもの始まりだった。いま私は性格上の多重債務者に就いて語ったばかりだが、ルビンの壺から思いつく限りの絵が描ける人と言い換えても良い。或いは、朝の光を受けて乱反射する廃品の山に鏡の破片を発見して拾い集めるという方法もある。だからと言って、性格破綻者+アルファー=文学。等と、そうお手軽なものでないのは百も承知だ。-おっと、これは念の為。

 (あの頃はまだ、・・・)

 あの頃はまだ、安保闘争が狼煙をあげたばかりの時で、知的エリートといえば、コミュニストでなければハムレット被れと相場がきまっていた。漱石文学も健在で、どの書店にも岩波版の全集がヴィトン然と陣取っていたし、坊ちゃんやら高等遊民とやらも地でいく人がいたくらいだから、学問自体、オブラートに包まれていて口当たりも良かったと思う。方や西に布陣するのがシェークスピアという按配で、教養戦略もすんなり肌を通して感じられ、まるで時代そのもがモラトリアムを自認しているようでもあり、毎日が日曜日であった。

 鼻歌混じりのラ・ビアン・ローズで、渋谷道玄坂界隈をのし歩き、高田馬場の「あらえびす」でペンを走らせ、新宿・歌舞伎町の歌声喫茶で手を組み肩を並べてロシア民謡を歌い、灯ともし頃には屋台の並ぶ西口のガード下に合流して焼き鳥と楊貴妃でしたたかに酔う。最後は仲間の下宿先に転がり込んで口角泡を飛ばしながら朝を迎える。目一杯のボヘミアン気取りだが、間違いなく我が青春のハムレットは手足となって生きていた。

 もう60年代安保等と誰も言わない。さしもの証拠物件も陳腐化してしまい、今頃は何処やらの黴臭い公安室の壁際の書庫で鼠の餌になっているだろう。だが、ハムレットは死なない。新しい風を受けて不死鳥のように颯爽とページが捲られる。昨今、憲法だけはオーパーツのように騒がれ、叩かれ、撫でられもしているようだが、論議というには程遠い。かって企業戦士の格好の踏み台となり、フェミニストには疎まれっ放しのハムレットだが、漸く舞台を得た。

 (ホレーショよ、世の中には、・・・)

  全く嫌になるよ、あいつは! が、そうならないのは過保護の君だからで、友人のホレーショの献身的な支えがなかったら恐らく早晩、潰されていただろう。ハムレット劇の山場でここぞと思う場面には必ずこの明知の人が居合わせる。父王の亡霊が出現する丑三つ時の望楼がそうだし、道化のヨリックの髑髏を手に幼時の感慨に耽り、哲学的な厭世観で講釈を述べ立てる時もそうだ。また、おべっか焼きの有象無象を退散させる城外では絶対にそばを離れてはならない。ハムレットには生涯逃れられない天性がある。ーノブレス・オブリージュ(トップの責任)である。独特の逆説で自暴自棄の力を呼び覚まし、しかも見かけは静かな独楽のように回り続ける。その為にも意識は恒に全開状態でなければならない。ホレーショよ、世の中には考えただけではどうにもならない難事がある。問わず語りの夢はいつもこんな風に始まる。

 しかし、人生の貸借対照表からどんな損益分岐点が読み取れたろう。生か死かの二項対立は元々無効である。人は死なないから生きている。死なない限り死んだことにはならない。死を思う分だけ生きたとしてそれが何になろう。高だか実行力ゼロと言うに過ぎない。ここにこそハムレットの原義があった。即ち、意識90%で残り10%は存在の不安である。立とうとしてよろめくハムレットの壮麗な翼が地に着かないように、介護の手を差し伸べることが出来たのも万事に就き了解済みのホレーショならではであった。

 こうして形而上学は逃避の夢となり、矢も盾もなく駆り立てられた王子は思想の軸であるホレーショに体当たりして、覆された宝石箱のように、格言やら警句やら才気煥発な言葉の宇宙をキラキラと惜しげもなく開示してみせるのだ。

 (狂気は純潔の裏返し)

 左様、恋狂いのようですな。全く筋書き通りの男と見える。−元々、こんな場違いな気休めで片付くような新王の悩みではなさそなのだが。この程度の自説の根拠なら鏡の中を探せばよい。一々物陰に隠れて様子を窺うまでもあるまい。所詮、クローディアスはトートロジーの巣の中でもぞもぞ動く鼠に過ぎない。気配を察したハムレットの凶刃に倒れる。異能の人の世界からまず最初に姿を消すのはこうした常識派である。が、これがきっかけとなって乱心の風景から根こそぎ出来事が炙りだされることとなるのだ。

 オフェリアの死はハムレットの致命的な過失に起因する。狂気と純潔は表裏一体であり、尼寺は女の膝の上にある。狂気を装って膝枕を決め込んだのもハムレットなら、純潔を装って尼寺を聖化したのも彼である。オフェリアにとっては迷惑な話で、純潔を裏返しに着込んだ狂気は死の京帷子、彼女はオンディーヌとなって水に還る。水の中こそ正真正銘の空っぽな迷宮。身振りという言語だけが幅を効かして、いたずらに空間を広げるだけだろう。

 二人は純潔の殻を破って羽を伸ばした一卵性双生児だ。アリアドネの糸を切られたハムレットは永久に迷宮に取り残されることとなる。

 (言葉!ことば!コトバ!)

 ハムレットの宮殿は水の中に劣らず空っぽの迷宮である。虚無が舞台の人間劇、間違いだらけの人生が一堂に会して大団円を迎える。全てが闇から闇へ葬られる束の間の幻想に過ぎない。少なくとも、神=王=父の喪が明けるまでは。即ち、亡霊が姿を消す本当の朝が訪れるまで、実像としての人影はない。ここは王の幻術によって右往左往する幽鬼の城である。何故、ハムレットなのか?寧ろ先王の怒りを買って当然の新王や王妃の前には現れなかったのか。人間の弱みも強みも知り抜いた上で、作者はキットここで筆先を誤らせたのかも知れない。 

 これは濡れ衣というものだ。

 亡霊の指跡も生々しい独楽は、或る日狂ったように回り始める。

 言葉!ことば!コトバ!

 表現と認識の表裏一体の壁に亀裂が走り、天を裂く稲妻が赤々と宮殿を照らす。この狂った独楽に触れる者は誰れ構わず突き飛ばされることになる。

 先ず、手始めにハムレット役者が。舞台を降りた役者の数だけハムレットは存在した。そして観客席から一番先に姿を消したのは誰れあろう、シェークスピアその人であった。

 (下天は夢か)

 帝王学に名を連ね、尚武の世紀にこの人ありと謳われた信長だが、もし、髑髏杯で酒酌み交わす友を選ぶとしたら、この雪国の王子様以外には有得ない。狂気(うっつけ)は天下統一のプログラムに巧妙に仕組まれたウエポン、不発に終わった客人を下天の舞で慰めることだろう。これは完全な死をデザインする為の舞であり、本能寺の変は遅きに過ぎる死、単なる偶然であり、本質とは何の拘り合いもないのだ。

 

 

 


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