斯くいふは、皆これ理窟と云ふものなり、の口上で知られる「日暮硯」、今で言う行革に身を投じた恩田木工の偉業の聞き書きである。よく出来すぎた話で使い物にならないと捨てて顧られなかった小冊子を、実業家で詩人の堤 清二は敢て今日的問題として再評価して採りあげた。初出から四半世紀に届こうとしている今、氏の炯眼はさすがというほかない。
分相応は身分制にも民主主義にも当て嵌まる天の配剤である。封建社会も資本主義社会と同様、実利主義だし、契約の本質についても、その二面性は変わらない。即ち、信頼関係の確認行為なのか、それとも背信行為を封印するためのものなのか、という契約精神のホンネと建前は全く同じなのだ。
問題はトップの采配にある。幼少の君主と若干39歳の家臣が名コンビを組んで未曾有の財政難を切り抜ける。終始一貫して柔軟な姿勢を崩さず、しかも些かも手を緩めず、理路整然と事にあたり、責任の所在が自ずから明らかになることで問題解決するといった手法である。訳者は本書の解説を通して、かってこの書に抱いていた日本的経営についての疑念を完全に晴らしている。混乱を極めた我国の政財界に、200年の懸隔をものともせぬ本書がスティタスとして君臨することを願ってやまない。
|