「此処過ぎて悲しみの都」はダンテ「神曲」の地獄篇のプロローグだが、笑いを禁じる哲学と泣くことを禁じる法学の、たとえて言えば水と油のような関係のものをどう混ぜ合わせたら法哲学と呼べるのか、入門に際して思わず苦笑せざるを得ないのも、まずもって救い難い分野であることの証左であろう。株と同様に法律にはひとの性格を変えてしまう毒性があるのだろうか。そうとは知らず絶望的なまでにとことん検証するのが法哲学というものらしい。物心ともに裏と表があり、とりわけ法律は扱い難いナマモノである。まして法哲学ともなれば、もう一度、生きる覚悟を奮い立たせなければなるまい。賢いが嫌味のない一廉の人物として一目置かれるにはどうすればよいのか。古今東西の法知識に詳しい著者の卓見によれば、ことばの正しい意味で初心とは恐ろしいものなのである。
そもそも万物の霊長たるホモサピエンスの人間的規範なるものも余りあてにならない。法の尊厳なるものも作用反作用の物理現象と序列と縄張りの動物的習性あっての話である。法治社会は現実離れのした理念の大系が役に立たないことを前提に作られている。実際のところ、複雑怪奇な織物をかなぐり捨てて、サル山の猿のように原初の記憶を頼りに仲間同士で毛繕いをしているだけなのかもしれない。今夜も隣家の落語好きのご隠居さんがやってきて、お銚子を傾けながら昨日とは違った観点で御託を並べる。お天気次第でどうにでもなる論法だから、真っ先に当の本人が辟易している筈だ。根本法などと開き直られると逃げ出したくなるが、法律が人間の本性を写し出す鏡であることはほぼ間違いない。ところで死体を踏み越えていくのが戦場だけとは限るまい。平時の塹壕は犯罪の温床とさえなっている。
知りすぎた者は沈黙しなければならない。恐らくそのようなものとして神は存在するのだが、生死をはみ出したところが仏の世界かどうかはわからない。しかし「下手な考えは休むに似る」でこの世の中が動いていることは確かである。もしかしたら電信柱の立小便のシミがオーラを放つことだってあるかもしれない。法律用語と俗諺卑語が壮絶なバトルを繰り返す身の上相談の座が白み、硝子戸越しに見上げた空が一片の雲も浮かべていなければ良いのだが、太古の無償社会が只闇雲に恋しくなるようではなんとも遣り切れない。当今の稼ぎ頭である法律家の恐れ多くも片割れであることを自認してか、著者自身はこう釈明している。「哲学の本質は求知心の暴走で、これを暴走として非難するのは、実質的価値による認識への介入であって、非哲学的議論に過ぎない。最もよく暴走したのがタレス以下の初期ギリシャ哲学者たちで、現代法哲学でその精神を最もよく継承しているのはケルゼンだ」――解ったようで解らない、まるで溺死したナルシスの現場検証に立ち会わされたように戸惑うばかりだが、酔いのまわった与太話でなかったことは認めざるを得ないだろう。
|