この手の本はどう扱ったものやら、読了後、殆どお手上げ状態である。レトリックたるや鄭重を極め、哲学的か文学的かはいざ知らず、どうやら奥の院に鎮座ましますのは、金ぴかに飾り立てられた一体の生き仏であるとお見受けした。しかも、著者の実在性すら疑いたくなるくらいに事大がかったバロック調の肖像空間である。主客応答のスタイルは立正安国論ほか、日蓮一流の論理展開の手法を模して、実に堂に入ったものだが、質問が回答を研磨しているかのような錯覚を覚えるのは出来レースだからか。質問は質問として手付かずのまま、しかも回答にはそれなりに落ち着きがある。又、最後まで折り合わずに屹立する二軸構造のようでもある。それとも、徐々にオーラめく千手観音にマッタをかけ、師弟不二の土饅頭の一丁上がり、てなことにでもなるのだろうか。
それにしても、池田大作とは一体何者?丸太のような号令一過、団子状態に固まった人間集団を大乗精神と言わば言え。私は私の道を行く。そんな反発の火花を散らしながら一気に通読。ガランとした風通しのよい洞穴を突っ走ったわけだが、「池田大作の事」などどうでもよいことにあらためて気づく。ガンジーにもしやの情事があれば、さぞかし美しいだろうけれど、凡愚の極みの太作さんではそうはいくまい。<希代の悪党か、百年に一人のカリスマか>そんな品定め自体が第一面倒だし、謎は謎のまま空中分解するほうが、この本の場合は寧ろ相応しいのかもしれない。
牧口・戸田・池田のカリスマ三代の神話化作用は些か戯画めいてみえ、我田引水もいいところだが、著者自身がこれまたウルトラ来歴の人−「どうぞご勝手に、但し、世界のアチラ側でネ」と思わずヘソを曲げたくなる。勲章好きの外交使節のドタバタ会議で一件落着するほど、この世のしくみは甘くはない。退屈この上ない世紀の長談義で軟禁されたトインビーと、孫娘の当惑は目にみえるようだし、松下幸之助が対談相手の大作の一言に感動してひしと抱擁しあったなどと、こいつマジで活写するあたり、相当なワルとお見受けした。抹香臭さが売りの本書にしては、何故かヤケに粋がった体裁で、小林秀雄に始まりランボーで締めくくられている。ワカランナ〜この不良爺は!もしかしたら不完全燃焼の性質の悪い青春の燃え残りかもネ。
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