ここにあるのは 井戸から汲んだ一杯
の水
舌にのせれば 石と木の根と 土と雨の
あじわい
わが最上の宝もの 唯一の魔法
きらりと冷たく シャンパンよりも貴い
いつの日か 名も知らぬ人がこの家に立
ち寄り
この水に癒されて 旅路をつづけることも
あろうか
いつかのわたしのように 暗い混沌に沈む
誰かが。
コップ一杯の鮮烈な水を 飲み干したあの
とき
にがい思いにまたもや 心を曇らせていた
わたしに
透明な活力が 正気を返してくれたように
メイ・サートンは、「海辺の家」、「独り居の日記」等、瑞々しい感性と気品溢れる独特の作風で知られ、我国にもファンの多い女流作家である。最晩年の彼女には八十歳とも思えない豊かな表現力があり、その旺盛な創作意欲は、孤高な暮らしぶりと相俟って、畏敬の念すら抱かせる。小説家、エッセイストである前に詩人、と本人自身も自負するだけあり、500篇以上の作品群から厳選されて編まれた「詞花集」は、まさしく彼女の文学的功績の頂点とも言えるものだ。確かに、ひとは生き方次第で、輝かしい老年を迎えることが出来る。さらに言えば、生き延びるのではなく、生き抜くことで感性が磨かれる。自然と共に歩むセンス・オブ・ワンダー、それが、この「一日一日が旅だから」の世界にみごとに結晶している。
この本の冒頭を飾る、「一杯の水」と題された詩篇こそ、彼女を常に正しく歩ませた導きの星、夢と実人生のアーキタイプであろう。それはひとり彼女の生にとどまらず、全ての人が分かち合うことの出来る希望の源泉でもある。彼女は体力の衰えを決して嘆いたりはしない。寧ろ、彼女を中心に、部屋全体が広大な空間となることに喜びを覚え、階段の踊り場でクライマーのように心を躍らせ、明るい朝の厨房の光の下では、渓流に竿を投げるフィッシャーのように眼を輝かせている。長年、培うことで身に付いたこの「バーチャル・レアリズム」、彼女の生活感情であるとともに信仰体験でもあった。
船なしにかの岸を旅する<彼女>のために、誰もが幸運を祈らずにいられない。1995年没、享年・八十三歳。
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