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日付:

2006/12/17

タイトル:
傘の死体とわたしの妻
著者:

多和田葉子

出版社:

思潮社

書評:

 
 もしも死 はらんだらオランダ
 海洋図にない羊の地域に
 腹電話 ならし よびだし
 精子そっくりの四分音符投げ込み
 化学を傍観するように
 ふくれあがってくるまで
 なるがままに
 できるか

      「想像中絶」

 一瞬、大胆なフレーズの畳みかけで度肝を抜かれるが、差し当たって、登場するどの言葉たちも<記号元年>とでも呼ぶべき装いである。間違いのあるやなしは、どうやら夢の方で分が悪そうである。式次第で事は速やかに運ばれているのだから。夢もそれ自身の目方で翼を広げるとき、思う存分、遠くまでゆくものらしい。

 「傘の死体とわたしの妻」は現代詩手帖の連載詩を纏めて一本とした多和田葉子の本邦初詩集。どうにも手の付けられないがらくたの山ともとれそうだが、さにあらず、一篇一篇が初出時のういういしさを保ちながら、夫々が納まる所に納まっている。カーテンの隙間から枯葉散る銀杏並木を遠望する時、吹き溜まりの泥濘に枯葉の山が渦を巻く時、天を突く寒々しい裸木は室内の温もりとは折り合わず、脳裡に刻み込まれればすぐ、それと気がつく光景ではないか。待望久しいとは言え、いざ手にしてみて、こんなに戸惑いを感じさせる本も珍しい。

 最近の作家で幻妖のスタイルを得意とするのは倉橋由美子と川上弘美である。デリケートな手法上の差異は別にしても、パレットで薄く混ぜ合わされた水彩絵の具のえもいわれぬ感触。一つの輪の中で滲むように開く花弁はそっくりだし、多和田葉子との違いも歴然としている。彼女の場合は夢と現実が隣り合ってパラレルに進行する二軸構造の世界。ベルリンの壁が崩壊したあとに、みえない壁に遮られて拮抗する東西の価値観が反目しあっているかのよう。手に持つ水差しひとつにしても、これは又、何ということであろう、鏡の世界では鰐の如き相貌を呈する。しかも鏡の世界を往還しょうものなら、更に奇妙なことだが、より一層現実味を増すことにもなる。彼女の魂はプラハの妖術師に甚く気に入られたものらしい。

 これら一連の慌しい言語群に、「多音節独日語」と名付けた人がいる。彼女自身、「エクソフォニー・母語の外への旅」を著すことで、創作に弾みをつけ、自註を試みたりもした。あえて、根っこを断たれた無国籍人を自認する彼女だが、国と国の狭間に、言語のユートピア建設を心がけ、誰のものでもない河川を流し込む。橋は渡らないためにある。翻訳は未完状態を常態とし、「誤訳という荷物なしに旅はできない」のだから、詩もそのように、誤解を畏れていたら最初の一行すら思い浮かばないだろう。

 この詩と小説に関する創作論には、彼女自身のライフワークに就いての心構えが正しく克明に盛り込まれている。少し長いが引用してみよう。

 「言葉を小説の書けるような形で記憶するためには、倉庫に次々木箱を運び入れるように記憶するのはだめで、新しい単語が元々蓄積されているいろいろな単語と血管で繋がらなければいけない。しかも、一対一で繋がるわけではない。そのため、一個言葉が入るだけで、生命全体に組み換えが起こり、エネルギーの消費がすさまじい。だから、簡単に新しい言語を取り入れていくことができない。」

 「わたしはたくさんの言語を学習するということ自体にはそれほど興味がない。言葉そのものよりも二ヶ国語の間の狭間そのものが大切であるような気がする。わたしはA語でもB語でも書く作家になりたいのではなく、むしろA 語とB語の間に、詩的な峡谷を見つけて落ちて行きたいのかも知れない。」

 私はこのような方法論が生み出す混乱を今では正しいとさえ感じている。デュシャンのレデイメイドやら、シュトックハウゼンの集音装置やら、額縁にも五線譜にも納まりきらない世界が、無名の豊かさを享受するのを、確固たる意志(これぞ芸術)として賛美したいし、ティンゲリーの廃品芸術が、いつ、どこの馬の骨ともわからない新人の手で、再構成されたからと言って少しも驚かない。

 遥かベルリンの空の下で、本を開き、「アイスクリームの雪山一面にカラカサの立つまで」言語の異域を彷徨う健気な彼女に声援を送りたい。



 

 

 


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