そもそもの発端はランボーという途轍もないオーパーツにある。磨き方によってはどんな風にも光を放つこの変幻自在な原石は、それを手にする者の運命を変えた。迂闊にも文学的な事件として感動を引き摺ってしまった小林秀雄と、まるでお誂え向きのリムジンか何かのようにちゃっかり言語操作のハンドルを握る瀧口修造の違いは歴然としている。どちらにせよ当時の文壇から頭一つ抜きんでた炯眼は変わりがない。方や象徴派の鬼才・ヴァレリー、方やシュルレアリズムの総本山に君臨するブルトン、このヨーロッパを二分し兼ねない流派の国内版であった。悠に半世紀は遅れていた我国の文壇でイデオロギー論争が熾烈を極めた頃の出来事である。
夢と現実、或いは水と油、そのどちらでも構わない。両者を結ぶ<と>の役割の重要さこそが問題である。単なる並置ではない背反と同化の記号学から弁証法が導き出されるのだから。まず、著者は我国に於ける超現実主義理解の誤りを指摘する。誰もがこの運動に接するや、ブルトンの難解な理論武装と、一種異様な表現形式から、反世界の魔に憑かれたゲシュタルト崩壊の世界を思い描いてしまうらしい。むしろ真相は現実肯定的な局面にあって、20世紀版・ルネッサンスと呼ぶに相応しい状況と言えよう。医師・ブルトンの冷厳な人間解剖学と荒療治が開陳されたこの時代は、ヴァレリーが精神の危機と呼んでいた時代でもあった。
言語表現のスペシャリストとしての詩人と、言語認識のゼネラリストである批評家が同居するハイブリットな世界の天地の分かれ目にこそ、本書に於ける<と>の役割の重要性がある。
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