さすがは谷川俊太郎、転んでもくしゃみをしても詩になってしまう。耳なし芳一の般若心経ではないが、この人、頭の天辺から足の爪先まで詩で出来ている。「子どもの肖像」と題された本書を手に取った瞬間、その感を深くした。それにしても詩と写真・詩と絵画など、既に幾つかあるコラボの実験では、いつも作者の力量が冴える。もしかしたら作者が最も好きなジャンルなのかもしれない。本書は、偶々出逢った子どもたちの、幼年時代か青少年期どちらかの5年間に亘る成長記録。と言っても、その5年間は、出会いと再会の、夫々が対になった数葉のポートレートがあるだけで、中身がそっくり欠落してしまっている。みえない幕間の人生を内面のドラマに仕立て上げる神通力たるや相当なものである。
百瀬恒彦の撮影したハイレベルな肖像写真を見るがよい。鮮烈な一輪挿しの花の競演は時に華ぎ、親しげに寄り添い、いかにもその通りと感服させられる。それを追尾する形で詩がナレーションの役割を果たす。子どもたちの存在は、個性などという尤もらしい秤に掛けられるような代物ではなかった。例えば、宇宙の無重力空間で、定点観測された生命現象のようなもの。なんら経験則に拠らず、教条的な何者もない、しかも人間にとってまっとうな事柄だけが大切に保存されている。そんな根源的な摂理さえ感じてしまう。勿論、天性の学習能力に呼び覚まされた未来への真摯な問いかけもある。もし教育理念以前の人間愛自体が疑わしいのであれば、教育など百害あって一利なしである。「ひげをそりネクタイをしめ/じぶんのめいしにとじこめる」のが精一杯のところであろう。
種子に芽や花が含まれるように、幼児の中には大人がぎっしり閉じ込められている。だからこそ「5年という歳月は/おとなにとっての/50年にもあたる/かもしれない」のだ。−確かに子どもの表情には言葉に言い尽くせぬ不思議な味わいがある。
作者の冒頭の詩が逆説的に語るのは、<まず答ありき>である。教育とは遡行することではなかろうか?
子どもが得たものと
失ったものの
微妙なバランス・・・
そのバランス感覚だけは、如何なる名においても破壊されてはならない。
足元の覚束ない年寄りに杖を持たせれば歩くことが出来る。だが、ペンを握らせてみたところで誰もが詩人になれるとは限らない。しかし、俊太郎の詩の世界ならみんな子どものように遊ぶことが出来る。俊太郎個人の詩なんかではない、ここでは誰もが詩人なのだ。但し、5年という歳月を疎かにしなかった詩人のアリバイは俊太郎にしかない。
わたしたちは
いつか
いなくなる
のはらでつんだはなを
うしろでにかくし
おとうさんにはきこえない
ふえのねにさそわれて
わたしたちは
いつのまにか
いなくなる
そらからもらった
ほほえみにかがやき
おかあさんにはみえない
ほしにみちびかれて
「いなくなる」
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