その昔、辺境のローマとして歴史的な烙印を捺されたルーマニアだが、誇り高い民族感情は、屡、「ローマよりもローマ」と言う途轍もない文化的矜持となって現れ、逸材を世に送り出すこととなる。詩人のトリスタン・ツアラ、彫刻家のブランクーシ、音楽家ではジョルジュ・イオネスコ等々、何れも意欲溢れる前衛的な作風で知られる。シオランはデモーニッシュな思索の全てを、賞味期限の長い爆発力のある地雷のように思想界の足元に仕掛けた。本書の執筆を最後に引退を決意、既に83歳の高齢ながらパリ郊外のアパートで悠々自適のひとり暮らし。
内面の鬱積を解き解すかのような、鋭利な諧謔性に富んだ様々な警句。丁重な措辞を包み紙のように破り捨てる反語的なイデーの閃きは、追い詰められた情念の極北にあって、矛盾に満ちた現実を足下に照らし出す。奇異を衒うわけではなく、さりとて凡庸に甘んじてもいない。唯、反芻し、咀嚼することで、養分となる。毒だからこそ薬にもなる、そんな世界にこそ相応しい、免疫体としての限りない自己形成がある。人跡未踏の力業ならではの言葉の息吹きであろう。誤解を畏れずに付け加えるなら、どの命題も<自爆しつつ不滅>である。親和力による不本意な延命と言おうか、それとも愉快な自虐とでも言ったらいいのか。
訳者は指弾型から、共感志向型になったとして、本書から次のアフォリズムを後書で採りあげている。若年の憤怒が、まだこのように燻り続けるシオランの火薬庫はまさしく驚異である。敬して遠ざけるべきか、自己研鑽のために、その真髄を踏破すべきか、意見の分かれるところであろう。
「友情には、若いときしか、意義もなければ効力もない。齢をかさねた人間が、いちばん恐れているのは、疑問の余地なく、友人たちが自分よりも長生きすることである」
かつて、シオランは思想の円熟が、己の若さと拮抗しつつ形成されることに苛立ちを覚え、逆流の如き暴力的言辞をあえて試みた。そこには言葉の正しい意味での創造的な破壊の精神があり、表現上も難易度の高い方法論を同時に抱え込んでいた筈である。「すべての事象に飽き果てる、神にさえ、倦きてしまう−このことを怖れながら、私は生きてきた。究極の倦怠感というこの妄想こそ、ついに私が、精神的達成に辿り着けなかった理由だといっていい」・・・。そして、これこそシオランのシオランらしいところだが、既に、処方箋付きの予防薬が用意されており、それは直前の記述にあきらかである。
−もし君が、激高のあまり頓死するのがいやなら、君の記憶をそっとしておきたまえ。まちがっても、深く掘り下げたりするな。
前著「生誕の災厄」に見られるとおりの厭世家だが、生きてしまった以上、生きるに越したことはない、と小声で囁く。これは又、なんとお手並み鮮やかな回答であろう。この伝説の人の持前の人懐っこさを、オデオンの四つ辻の彫像の下に垣間見た著者は、帰国後間もなく脱稿、それが本書にあたるらしい。
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