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日付:

2011/12/06

タイトル:
弘法大師の法華経V
著者:

大倉隆淨

出版社:

星雲社

書評:

 

  1999年はノストラダムス元年、「諸世紀」のクライマックスにあたる世直しの始めの年である。弘法大師の思い違いでなければよいのだが、高野山の自称改革者で偶々曼荼羅を製作中の一密教僧にアンゴルモア大王が降臨するとの御託宣があったらしい。この頗るつきのトンデモ本は間接話法を駆使した霊感記述、文士と編集者の関係を「私」と霊媒師Sに置き換えて自身の守護神である開祖に衆生済度の一部始終を語らせている。用意周到なお膳立てのわりには、そもそもの表現が体をなさず文脈もガタガタで自家薬籠のテーマも形無し、迷える子羊のハートを掴む伝道者のメッセージからは程遠い。飲まず食わずの山岳修験僧だからか、屡、言語操作が酸欠状態に陥りがちで語彙も乏しい。レトリックたるや稚拙を極め、読者を魅惑する遊びがないから盛り上がりもサッパリだ。山頂で俗界の塵をぬぐい捨て清浄の気に触れたのにびっこを引き引き下山では折角の得度も台無しだろう。それなりの学識経験を匂わせながら何を血迷ったのか、まるで虎の威を借る狐の如く、恐ろしや!なんと日蓮調伏の挙に出た。お話の骨子は「真言を種とした無上道の獲得」、この尊師の背景に<真言法華の会>とあるところをみると、密教儀軌か上行付属かのたて分による法華経の陣取り合戦の積りらしい。

 かの有名なシェークスピアの諸作品はマロの世界の換骨奪胎といわれる。しかし、だからといってこの稀代の天才を誰も剽窃家・詐欺師とは呼ばない。又、多くの古典的な翻訳・翻案の類が原作の本質を踏みそこねていることなどありえない。法華経の行者・日蓮は密教僧・空海の秘密主義を意識しながら叡山の開祖にして大乗精神の権化・最澄の無念のテキスト欠落を持ち前の想像力で補填しなければならなかった。そんな経緯もあって、何かと物議を醸すこととなる顕密相対だが、原義上も間テキスト主義でしか検証出来ない代物だから、陸に橋を架けるのなら兎も角、どちらも異本として取り合わないのが賢明であろう。執拗な著者の粗探しに曝された「御義口伝」は、それこそ富士門流独自の法門として仏教界に恥じない法華経観である。日蓮口述・日興記述は、多くの識者も認めており、史実上も正皓を得たものと判断して間違いない。真言陀羅尼が文底秘沈のお題目に似ていようといまいと、それこそお釈迦様の知ったことではあるまい。本末転倒・自家撞着はなにはともあれ著者自身のことである。日本と韓国を陰陽の法則に当て嵌め、在日韓国人が<業>を返す、等と自説を開陳しているのだから。既にチベット寺院に古くからある伝統行事のことを思えば、この曼荼羅図顕を、高野山の特許と決め付けるほうが可笑しい。インドや中国の何処にも曼荼羅製作のアカデミシャンはいなかったのだし、どうしても本命か否かを問題にしたいなら、日蓮聖人が魂を墨に染め流して書いた一念三千・十界互具の曼荼羅が「二乗には虚空と見え菩薩には無量の法門と見える」と知るだけで十分ではないだろうか。

 仏界にも地獄界があるが地獄界にも仏界がある。さればこそ娑婆即寂光土の命題と相俟って法華経は難信難解の教説となり、<妙>の一字も単なるきれいごとでは終わらない。こうして対面する墨と紙面による全宇宙の白黒反転の微細な天体図は、世界が一巻の書物に収まると豪語したマラルメの究極のポエジーである「サイコロの一振り」にも似通うものとなる。それは兎も角、七年間の荒行の甲斐あってか、雨後の筍のような新興宗教の教祖様方を塵芥のごとく、毛虱のごとく、吹き飛ばした著者の怪気炎には、一読者として心の底から快哉を叫びたい。

 


 

 

 


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