文学作品を大きな活字で堪能する。デカ文字文庫シリーズの一冊。例えば同じ虫でも、蟻の行列ではうんざりさせられるだけだが、甲虫や鍬形なら話が違ってくる。ひらがなや漢字の個性的な顔貌につくづく見惚れ、今更のように感動を覚えることになるのだから不思議なものである。
そもそも不思議でも何でもなかった。元来、象形文字に転移分解されて意味や働きを伝える図像学。記号の抽象化がやや度が過ぎたために、顔を忘れていただけなのだ。名作「蜘蛛の糸」は、この種のテイストにはお誂え向きの一篇である。実はこの短編、単なる思いつきとか観察記録の類とやり過ごすわけにはいかない位、手ごわいのだ。
それ自体が小説であり小説作法でもある、物語に仕組まれたそういう含蓄が冴えない筈はない。方法論の定式化は、短編であればどんな題材もこなれてしまう。まさに「蜘蛛の糸」である。
先ず時間と空間のたたみ掛けがなんとも心憎い。地獄の永遠の苦しみは極楽の一日でしかない。しかも意識に隔絶された壁があり、片方が暗闇で、もう一方は硝子張りである。お釈迦様なら底なしの地獄と言えども手に執るように解るのだ。蓮池の傍らの散策に、慈悲という余分の心の曇りが忍び込むことで、極楽も暮れてゆく。明日は又、同じことを繰り返すとしても、心の傷を深めずにはいないのは、極楽の住人であろう。細い糸が断たれた深い闇には眼に見えぬ糸が張られ、オーラを放つものがあることも確かではあるのだが。
さて、蜘蛛のような悪役に極楽はさぞ居心地が悪かろうと思われるかもしれない。これが中々愚問どころではないのだ。無矛盾では何も起こりえない、という哲学的な命題を踏まえての話である。
ほかに「杜子春」、「白」、の教訓劇。「トロッコ」のミニ・サスペンス・ドラマ等。短編ならではの直裁な表現と説得力は芥川をもつて白眉とする。
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