広く世に知られ、古典として長く読み継がれながら、これ程、理解されなかった書物も珍しい。確かに権力に関する哲学的な信念には胡散臭さが付き纏う。それに人心掌握のための完全なマニュアル本などある筈がない。そもそも誰がこれを読むのか?秦の始皇帝に頚を刎ねられた韓非子ではないが、権謀術数の罠に我と我が身を貶めることだってある。話題性に事欠かない危険な火遊びのようなもので、寧ろ理解されないからこそ生き延びて来た、そんな風に考えられないこともない。けれども、設問自体に誤りがなければ、あくまでも読み手の問題であろう。
マキアヴェッリは現実肌で、伝統を遵守した根っからのフィレンツェ市民。強かな辣腕家振りはかなり人目を惹いたものらしい。その名も「君主論」とある通り、本書は体制側の論理で貫かれている。先哲の書に裏付けられた方法論は才気煥発で非の打ち所がない。取り合えず俎上に挙がる君主制だが、王権神授説による国家であろうと、成り上がり者のそれであろうと、要するに安泰でさえあればどちらでも良い。問題は統治権の中身ということになる。元々、この天才の目線は上方にあり、世界の中心に向けられていた。旺盛な出世欲は押して知るべしである。このホンネの部分に向き合い、帝王学かリーダー論として読めば、そんなに間違わない筈なのだ。
結局のところ、単なる処世術として、身の丈に合わせただけの誤読に過ぎなかったのではないか。
高潔さは君主の身の上、しかも大義名分は善悪を手足のように使い分けなければならない。一網打尽こそ合目的的で最適な手段である。この悲壮なオペレーション・リサーチの言葉尻だけ捉えて拡大解釈し勝手に一人歩きしてしまったのが、所謂マキアヴェッリズムである。立派だが底が浅く、賢いが正当性を欠く、そんなちぐはぐな世間の地位保全を助長して幾世代と言うもの混乱を極めた。当然のことながら、国家理念が統治の実際に関わるとき、凡愚のいざこざに足を突っ込んではいられない。時間はたっぷりとある。だが、噛み合わない歯車は空回りするだけだ。
暮らしぶりは貧しくとも、下賤の人ではない。高雅なリゴリズムを体現したが、非情の人ではなかった。名著として洛陽の紙価を高めるべき本書は、運命の悪戯で官職を解かれ野に下った才人の悲憤の書でもある。
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