「目覚めれば花」−もし、私が本人に成り代れるなら、こんなタイトルは願い下げにしたい。これではエポック・メーカー気取りの編集者の意図が丸見えではないか。1990年刊とあるから、結局、なしの礫と言うことになる。世代交代の意気込みも何処へやら、スタッフの奇妙なわざとらしさだけが残った。詩の世界はそんなに生易しいものではない。お題目さえあげればご利益がある集団催眠とはわけが違う。まず先立つものは個人の資質である。
シリーズの最初の一冊にあたるこの本。どうみても一回性の空中ブランコ、今後に期待を抱かせる程の力量はない。残念なことに詩は精鋭が競う第一線だけがあって、あとは存在価値ゼロの世界である。絶対か無、散文的な評価は得られても、詩のヴェールを剥ぎ取られ、言葉の地肌が透けて見えるようなら事実上はリタイアである。
<しなやかに撃ってくる セクシャルな言葉の鞭>−この帯文はデッチアゲもいい所だろう。傑作はスキャンダルを内包する。誤解された上でなければ、受け容れられない。そういう資質だからこそ、そういう手順を踏むのだ。誤解に始まり誤解に終わるものとはわけが違う。この本は少しもセクシャルではない。作者の感性は別の処にあって、むしろ生活者の心の歌としてなら素直に聴くことが出来る。
わたしのものではない
あなたの歩幅も手の長さも好きだ
降り出した雨をよけながら
アーケードからアーケードへと走っていく
お互いに持った傘を
使わないでいることに
特別な理由をみつけたくて
走ることが得意な私が
あなたの背中を追いかけていた
わたしがさきに傘をひらいたら
あなたがさきに傘をひらいてくれたら
「発露」
何故、編集者は作者のナイーブな心を踏み躙ってまで、話題性に拘ったのだろう。詩を卵のまま潰された彼女は今、何処でどうしているのか?高度成長社会と言われた当時、一攫千金の夢は人々の心を奪った。これは「編集残酷物語」の氷山の一角に過ぎないのかも知れない。
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