阿部公房はカフカの表現主義を思わせる前衛的な作風で知られた社会派の風刺作家である。思想を生き物のように手懐ける創作手法は、象徴空間としての舞台芸術にこそ最も相応しい。ルポルタージュ風のふんだんなコラージュによって、物語の中心命題がくっきりと浮かび上がる。本書は未開発な過疎地における既得権益としてのカリスマ支配と新規参入のアウトローとの利害得失を描いた傑作戯曲。
「未必の故意」なるタイトルからは、なにやら厳めしい法廷シーンが思い浮かぶが、そうではなく全編が人間臭い裁判のリハーサル風景なのだ。そもそも法律用語なるもの、科学的な成語と違って、何れも苦肉の策の概念規定に過ぎず、状況を上手く説明しきれない。本書に扱われた「未必の故意」が確信犯から過失までのどの行動領域を指すのかは判然とせず、当事者意識のありようによっては左右のブレも大きい。倫理的な問題提起と合目的な問題解決の混在で齟齬を来たし、極端な話、罪状認識もサイコロ遊びのようなものになり兼ねない。
ともあれ、暴力から身を守る住民自治が傷害リンチ事件となって始めて本土の関心を引く島社会である。既に性風俗に免疫を欠いた青少年は何れも<つんぼ><めっかち><ちんば>と矮小化された未来の登場人物でしかなく、無性格な<若い女性>とは金銭的な拘り以上のものはなにもない。行政依存社会の構造的な破壊がリアルに表現された異色作で、その面白さは主人公の居ないマカロニ・ウエスタンと言ったところ。
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