改めて批評というものの、語り口の難しさについてこの本で知った。出来合いにせよオートクチュールにせよ、兎も角、鏡の前で肯くことが出来れば、一応は身に着いたことになる。木乃伊採りが木乃伊になるようではお世辞にも批評とは言えまい。詩の言葉にいつも少し遅れて批評はやって来る。まだ批評言語も覚束ない頃の話だ。ややもすると若書きの類で、著者にしてみれば汗顔の至りであるかも知れない。しかし、それも時代の顔のひとつ。今更、どうなるものでもない。
著者はマラルメを生涯の師と仰ぐヴァレリーに自分を見立て、折りにふれて語った錬金道士の夢を纏めて一本とした。超現実主義とは何か?どさりと秤に載せられた欲望のひとかたまりでみごとに針は吹き飛んでしまう。−唯、それだけのことだとしたら?
昭和30年は折柄のマスコミ・ブームもあって、批評が芸術の聖域となり胃袋となる、そんな時代の幕開けである。瀧口修造は美術評論家として国際的にも高い評価を得た最初の日本人であった。
絵を描くには色価(ヴァルール)の心得さえあれば良い。しかし、言葉はそれ程、単純なものではないらしい。
純潔な装飾
無数の逆さ蝋燭たちの疼痛
澄明なる樹々の枝と花
無限大の鏡の轟きと
家々の窓々の痙攣
私の全身
一日一日輝きをましてゆく水の化石の中に
私の欲望はなほ泳ぐ
青空と呼ぶ巨大な釣燭台の落し子である
私
たれも私を恋のスフィンクスと呼ばない
私の夢は碧玉の寓話の中で
一層青く燦めいた
「魚の欲望」
詩人が特に好んだ自動記述やデカルコマニーの手法から奇怪な夢が呼び覚まされる。リアルだがコード不明で解読不可能、いや、無用とすら感じる。透明でキラキラした意識の破片が宙を舞うだけだ。
瀧口修造と言う「謎のスフィンクス」の陰に包まれて、明日の夢を培うもよし、或いは第二のスフィンクスとなって謎の鍵を手にするもよし、時代の証人を目の当たりにした著者の20年の歳月は「20世紀の神話」をどう読み解いたであろうか。その成果を世に問う好著。
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