仙人と俊ちゃん(=谷川俊太郎)はカスミを食べて生きている。そんな地口が仲間内で囁かれ始めて、かれこれ半世紀は経つだろう。勿論、やっかみ混じりのジョークだが、これを知らない詩人はもぐりと言われても仕方がない。詩がメジャーになったひとへの最大の賛辞とみて差し支えあるまい。
もう存分に当世風で、しかも折り紙つきのお坊ちゃまである。イベントの神様としてなんら遜色がないばかりか、的屋の親分ですらそっと座をはずすくらい、ハレとケの使い分けも心得たものらしい。マスコミの馬鹿騒ぎからは とうの昔に隔絶していて、スキャンダルで羽目を外す程 拳を固めてはいなそうだ。根腐れのあだ花なんかじゃない、筋金入りの傑物ということになる。
さて、最新詩集「minimal 谷川俊太郎」だが、相変わらずモードとして解りやすい。イノセントと悪意のリバーシブル・ウェアー、しかも一本とられた感じのパリッとした老成ぶりである。
散乱する紙きれに
一生を託してきた
悔いは別のところにある
遠くが近い
近くが
遠い
<詩か俳句か>の独楽回しで、蘇州くんだりまで弾き飛ばされ、こんな塞ぎの虫に執り付かれたんでは、折角の上天気も台無しだ。コップの底に夕日でも溺れさせたろか!こんな言掛かりは止そう、−占いも吉と出たことだし。さて、「小憩」と題されたこの詩 さすがは出だし自慢の俳諧風。声がかかる筈ですわ。
白壁に松の影
大気に開く桃の花
コップの底に新茶が沈んでいく
大陸帰りなら、又、ひとまわり大きくなれる。その時は、文武両道なにするものぞ、と多いにケツを捲くればよい。千年遅れの雪山童子と笑われようが、老害よりはマシだろう。もともと谷川俊太郎の詩の世界には昔ながらの少年が住む。だからと言って「崖に立ってカムパネルラを呼ぶ 弦を抱えた少年」 まだ何かそういうイメージがあるとしたら、これはもう冗談ぬきで ボケ老人のアウラでしかない。ありがた迷惑も好い所だろう。
まわりが西欧被れでいるときに、オーパーツのような自分でいられる。それはエライ事なんだぞ と歴史は教え、本人もその気になれば 一廉の天才が生まれる。−天才とは100%の不精と それを帳消しにする何かである。今では勲章もののマエストロ、珍しく覚悟の人でもあった。
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