死は認識であって行為ではない。三島由紀夫の場合は論理的破綻の帰結が自死となった。
サド文学の真髄<聖とグロテスクと死>に擬えるならば、<美とエロティシズムと死>と言ってもよかろう。拡散型と求心性の殉教のフォームの違いでもある。本書は昭和45年11月25日の市谷駐屯地での「楯の会」事件から35年目に出版された三島由紀夫回顧展記念アンソロジーである。今も尚、記憶に新しい鮮血に染めぬかれたショッキングな一齣。この目くるめく万華鏡は、いつの世でも、各界人士に賛否両論の渦を巻き起こさずにはいない。
「ちったあーましに賑やかに死にたいものだ」と嘯いてアパートの片隅で鼠のようにひっそり死んでいったのは詩人・中原中也だが、三島由紀夫の場合は生硬な言葉の不完全燃焼を補完するために、聴衆を巻き込まざるを得なかった。いわば重々しい大義名分と有無を言わさぬ同意が信仰箇条でもあったのだ。しかも余りにも性急で全体的であったがために、思想ではなく気質的な偏向によって歪められ、僚友・石原慎太郎の複雑怪奇な議会のメス裁きとは似ても似つかぬ自損行為となって現れた。従って、いかに政治的な事件であれ、楯の会では余りにも散文的に過ぎ、レトリックとして意味をなさない。いっそのことマスコミのふれこみで人口に膾炙した「三島事件」の方が一連の文脈に相応しいのかもしれない。
何れにせよ創られた「謎」は鍵束の数だけ回答が引き出せる。鹿島茂の独創的な筆法で浮き彫りにされた三島像はなんと言っても出色だが、瀬戸内寂静・猪瀬直樹・小島千加子等、生前の三島に接した人々の生の声も捨て難い。観念と肉体が齟齬を来たさず完璧に燃え尽きるまで、エロスの炎はめらめらと金閣寺を包み込み、頂上思考に届こうとする。マッチを擦って巻きタバコを吸う、その一服の清涼感が彼の束の間の生である。
それにしても三島由紀夫にとって、天皇とは何だったのか? 天皇制では断じてない、況や天皇思想ではありえない。天照大神への生贄の儀式、西欧の死を身をもって演じたのかも知れない。天皇に纏わるミステリーが君臨する限り、三島文学は不滅である。
|