「毎日が日曜日」−アポリネールのこともなげな一言は、シュールレアリスト達のモラトリアム宣言となった。我国には万葉の時代から連綿と受け継がれた詩歌の伝統がある。この国民的なメッセージを「サラダ記念日」と命名してさらりと日常化した前衛歌人がいる。生活感謝の日、そんな祭日のようにも思えるが、感謝の気持ちがあれば、それこそ毎日でもかまわない。こうして人生にアンダーラインを引きながら出来上がったのが俵万智の歌の世界である。究極の短歌、一行詩などとも呼ばれる、この爽やかな感性の果実。もぎたての檸檬にナイフが入るや忽ち芳香を放つ。
男性歌人の作でも、女性名詞=ラ・タンカである。厳しい制約のある短歌だからこそ生まれた妖艶な世界。レスボス島のサッフォーもかくやと謎に包まれた三十一文字のツボを探し当てる。彼女の評言もまた自由奔放でいささかと言えども的外れではない。後から来た者がジャンヌダルクのように先頭で旗を振るのだ。もしかしたら計算づくかも知れないこの天真爛漫さは自然数のように文句のつけどころがない。彼女の批評空間はさまざまな例題を解く方程式の宝庫でもあろうか。ちなみに次の一首から「世代交代」の解を得るにはどのような方程式を用いたのだろう。
空気銃もてる少年があらわれて疲れて
沈む夕日を狙う (岡部桂一郎)
小林秀雄がゴッホの向日葵に就いて書いた文章に、「この黄色は苦悩を表しているのではなく黄色という苦悩そのものである」とあったが、俵万智が「三十一文字のパレット」にみる色も<歌の色>であることに変わりはない。
白鳥は哀しからずや空の青海のあお
にも染まずただよふ
この広く世に知られた若山牧水の「白鳥」の一首は、彼女によると白ではなく青が主題の歌ということらしい。地と図の反転で絵柄が二通り浮かび上がる<レヴィンの壺>のようではないか。白から青に眼を転じると、あら不思議、バラードと思われた曲が気宇壮大なピアノコンチェルトとなって耳に響きわたる。
本書はちまちました短歌入門書などではない。読み終わると同時に読解法が身に付くだけではなく、一廉の実作者となっているかも知れない。尤も、普通と思われていたことの非凡さが実感出来れば、の話だが。
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