例えば「ある風景」と題された詩にこんなフレーズがある。
繰り返されて
なぜ
そのたびに
日はあたらしいのか
そのとき私は
「生きる」という動詞を
まぶしく
問い返されたように思ったのだ
これが作者の定位置であることには、ほぼ間違いがなかろう。習慣と言う日々のコスチュームの着脱を繰り返しながら、太陽は新鮮に立ち昇る。それと同時に詩の原質も絶えず新しく生まれ変わらなければならない。鉛筆の木屑を匂わせながら詩はシャープな切っ先を現す。たった一枝を残すだけでも、推敲の嵐は森全体をざわめかす。一方、現存することだけで切り開かれた女の沃野は、簡素だが厳しい詩行の積み重ねで果てしない丘陵となる。
この収斂と拡散の、一切は波打ち際の潔さで終わろうとする、剥き出しのポエジー。小池さんの詩は皮一枚ですっぽり包まれた蜜柑のように暗さがない。それは又、外光に向けて透かし見る葡萄の房のように秘密がキラキラと輝いている。大人の感性を装う、初々しい少女の張り詰めた性のドラマがあるのだ。
誰もいない部屋を風が通る。/目には見えない生の芯に触れながら。/生者や死者、昆虫、獣、葉先で震える水滴、/痛んだ翼をたたむ鳥たち、/・・それらの一瞬身悶えるような生の輝きを包みながら。
1959年東京生まれ。1997年第3詩集「永遠に来ないバス」で現代詩花椿賞受賞。1999年発行の本詩集で高見順賞受賞。己の創意によって紡ぎ出された言葉が現実との折り合いに齟齬を来たさない本格派の女流詩人として定評がある。
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