夫婦間の揉め事は犬も食わないが、鴛鴦夫婦ぶりなら、ご覧の通りの絵となり無事、額縁に納まりもしよう。訳者は本書のあとがきで「もし、私の翻訳が自己満足で終わるようなら、その責任の大半は夫にある」と殊更に明記。この堂に入った発言が仄めかす藤原正彦氏の存在感もさることながら、どうやら、お二人の呼吸がぴったりとあった素晴らしい訳業と言えそうである。藤原氏と言えば、時代にフィットしたユニークな著作で、人気上昇中の気鋭の科学者。自己と言わず、天下国家と言わず、その本性にまともに向き合い、美しい数式で証明可能なことだけを真実と見做す稀代のロマンチストでもある。東西を天がける虹の橋に手すりを付けたヘリゲルからは半世紀遅れて、以心伝心の言語化が奇跡的な成功を納めたこの原本に辿り着く。その心意気に触れたからこそ、しっかりと足場を組めたのであろう。こんな風に時の壁を越えて異文化間の交流が息を吹き返すところをみると、健全なグローバリズムもあながち夢ではなさそうに思われる。門外不出の東洋の神秘が、その真髄を些かも損なうことなく逆輸入されるのだから。
かつて、それも戦前の一時期、東洋の神秘が海外のメディアの注目を集め、鈴木大拙博士の禅の思想が持て囃されたことがあった。しかし、「禅は禅をして語らしめよ」の原義が当時の風潮に馴染む筈もなく、(そこには思わぬ姦策もあったろう)単なるムードメーカーとしてのマスコミの気紛れに終始した。後年、サイケデリック・アートやら、ヒッピーのマリファナ騒ぎやら、虚実混沌とした大国の文明病とシンクロして、如何わしいムードを醸しだしたりしたが、禅フリークの大方が間違いに気付いてはいない。それ自体が一つの現実でしかないのだから、神秘主義ベッタリでは身もふたもあるまい。
世紀末の流言飛語に「ジャポニズム」の名が、用意周到に生け捕りにされた珍獣よろしく出没する。しかし、神国日本の風俗習慣がパリ万博の大きな屋根を揺さぶったなどとはどの本にも書かれてはいない。厳めしいドイツ観念論の思想上の系譜の髪一筋も掠りはしないのだから、その脇腹に致命的な横槍など入るわけもない。そんな我国の禅に興味を抱き、たまたま現地入りして、その実態を本書で詳らかにすることになるヘリゲルは、頑固な伝統主義者でありながら、神秘主義に後ろ髪を引かれる、脆弱な面もある哲学者の一人であった。
ヘリゲルは6年間の日本滞在を終え、帰国後間もなく「弓道における禅」と銘打ってベルリンで講演を行い大評判となる。その時の草稿に手を加え推敲を重ねて、「弓と禅」を完成させるのだが、彼は、この大冊とは言えない書物の脱稿に際して、極めて重要な事実をこともなげにこう語った。
「行為は容易い、だが、その記述は極めて難しい」と。
型と真髄に思弁的事実を通わせ合う本書は、弓道五段の有資格者となるまでの貴重な体験に基づく魂の現場報告書であり、洋の東西を越え、類書を越えて、生きることの不思議を永久に価値あらしめずにはいない、人生指南の書でもある。 NOT BUT ZEN,BUT IT THEN・・・,
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