生の一過性、その掛け替えのなさを、敢て日の暮れぬ間に蕩尽するのがデカタンス。然るに19世紀末葉の終末観が、あろうことか、未だに延々と尾を引くミュンヘン。これは、もう間違いなく西欧の鬼っこである。こんなしらばくれた自家撞着が培養する文化だからこそキッチュなのだ。性懲りもない凡庸を裏返したところで、著者の言う倒錯の世界でしかない。
芸術家にはパリ、マラーノにはアムステルダムがある。しかし、この古風で幾分排他的なお祭り好きの都市では、成上がり貴族が権勢を欲しいままにする。粘液質で俗臭紛々の黴の生えた町、ミュンヘン。ある種の居心地の良さが逆に災いしたのか、ここは、良識の、何を措いても冒険的精神の墓場となった。人々は強かに飲んで眠るだけ。いっそ毎日がビール祭りであれば良いのに、そんな陰口も何処吹く風であろう。
贋の文化にどっぷり浸かり、贅を凝らした引籠もりに耽溺するあまり、老残を晒して狂死する、ルートヴィッヒ二世。理想と現実が合体した第三帝国に大衆を巻き込み、破滅させた煽動家、ヒットラー。両極端の突出部は、どちらを向いても誇り高いバイエルン魂である。その胡散臭さが渦を巻き、殆ど鳴りっ放し状態のワグナーは暫く措くとして、マニエリスムの冷却装置が殉教者たちの棺の塵を少しでも祓い清めたかどうか。
本書の冒頭、著者の手慰みでもあろうか、風光明媚なヴェニスの海岸を彷徨う初老の男が描かれている。先ずもって許し難い故国を背にした文豪トーマス・マンの晩年の姿である。やり場のない哀しみが道化めいた表情の奥からひしひしと伝わってくる。しかし、男娼に溺れることで、自己嫌悪の灰汁抜きになったかどうかまでは定かではない。
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