正統か異端か、洋の東西を問わず、原理主義ぬきで宗教活動は語れない。比較的寛容な社会基盤に根を下ろし、複雑多岐な諸宗派を抱え込む我国の仏教界だが、日蓮宗ほど精鋭化し、歴史に波風を立てた教団も珍しい。日蓮宗の依経である法華経は釈尊最勝の教え、聖祖の一代記が法華経そのものであり、自らお題目を唱え、成仏の種となった日蓮聖人は人類の恩人と呼べそうである。
このような原理主義の独楽回しは中心がぶれると全体の揺れもひどい。しかし、単なる外道にはそもそも軸と言うものがない。一体、事柄が正しいとはどういうことなのか。日蓮門徒ならば誰であれ、文証・理証・現証の三様態に即して正邪を判断し、人間の在りようを自己点検するシビアな生活信条がある。かつては法華宗と呼ばれ、さらに奥義を極めることで日蓮正宗となった、その表現と認識の極北には、伝統踏襲の厳格な儀式の場がある。宗教は麻薬のようなもの、狂信的な偶像崇拝熱が起爆剤となったカリスマ支配ならばこその大組織。権謀術数による造反が、いつマグマとなって噴出してもおかしくはない、日蓮正宗ならではの危険な罠もある。まさに驚天動地の内部告発だが、本書には本尊・題目・戒壇の原則論(三大秘法抄)に纏わる現法主・願主の謬見が惹き起こしたお寺騒動の一部始終が描かれている。
大石寺宗門に直訴し、「創価学会」の暴走を食い止めようと烽火をあげたのはほかならぬ「日蓮正宗顕彰会」である。国会版・折伏部隊の言動が裏目に出て、本義に悖る路線変更を余儀なくされた池田大作だが、巨大化した教団の成果主義と少数気鋭の原理主義との対立は、正本堂建立の疑惑を深め、忽ち八百万信徒を混乱に陥れた。冨士派・日興門流にのみ血脈相承ありとする「一期弘法付嘱書」と「三大秘法抄」。その究極の法門を巡って、十重二十重の論陣が張られ、本山では三者三様の緊迫状態が続いている。ご本尊安置に相応しい景勝の地、天母(あんも)山が神話に過ぎないのなら兎も角、もし国家の大事であれば、最期のパーツを何処に置くか、積み木のてっぺんの手加減よろしく慎重ならざるを得まい。もしかしたら、この消耗戦の背後から彗星の如きものが現れるかもしれない。
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