身の丈に合った杓子定規な正論ほど詩の世界で肩身の狭いものはない。吉本隆明のような正論家は詩の王道とは元々無縁の存在であろう。彼は20歳代の習作を徹底的に推敲することで詩に見切りをつけている。その一方、保守反動の転向作家として思想上の紆余曲折もあった。詩の領域における空白を余儀なくされた一時期、独特の理論武装で詩壇に一定の距離を置き、言語の美や意味に就いて構造上の問題に取組んでいる。「言語にとって美とはなにか」はその集大成だが、往年の論客ぶりのほぼ全貌を知ることが出来る。
多くの場合、表現以前の認識の罠に堕ちたところから表現主体の自意識が始まる。岸壁にハーケンを打ち込み命綱を操る登山家のように「自己表出性」やら「指示表出性」等の造語を編み出し、詩と散文の間に横たわる広大なクレバスから果敢に言語の壁を攀じ登ろうとする。この才気煥発な吉本流アプローチのわかり易さと全体としてのしまりのなさは、曖昧な正確さという普遍言語を匂わせずにはいない。
そんな彼が「今の若い世代の詩は<無>だ」と投げ出さざるを得ない、ポストモダンとは似て非なる切り口は、彼自身の経験的無知や傲慢さに起因するのではなく、時代の一つの限界なのだ。確かに「団塊ジュニアの世代」と一括りすれば足りる群小詩人に詩本来の神話力など到底期待出来そうもない。ただ一様に未来を培う新しい言葉が欠けている。本書のタイトル「日本語のゆくえ」は伝統信奉者の現状を憂う詠嘆以外の何物でもないだろう。
正論は何も産み出さないのだろうか? 彼の推敲癖が自身の習作においてしかありえないとしても。吉本隆明は「人格」がまだ死語でなかった時代に「詩」を生涯の糧とした詩人である。自己の精神形成に抜き差しならず関与した複雑な問いを押しのけて、新しい詩が立ち現れるとは思われない。
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