不可逆的な時間の渦に押し流されまいと躊躇逡巡するとき、私たちの日常生活には様々なドラマが生まれる。生傷の絶えない泥臭さが絶えず付き纏う退廃的な当時の文壇にあって、詩人・谷川俊太郎ほどその悪しき気風を免れスマートに人生を演出した者はあるまい。処女詩集「二十億光年の孤独」には、彼の18歳から21歳までの赤裸々な感性の森の生態が寸分の狂いもなく見事に描かれている。
単に幸福な出発であっただけではない、この詩人に関する限り、生涯が詩の生誕祭とでも呼べそうな幸福な境遇をこそ思い知るべきなのだ。世に碩学で知られた厳父によって編み出された詩集一冊はその道の著名人から注目を浴び、表現の奇蹟とまで持て囃されたものだが、元々詩人の本質が人口に膾炙するのはこのことを置いてほかにない。
その奇蹟の奇蹟たる所以は、図らずも序文代わりに冒頭に仕組まれた三好達治の詩篇との対比によって明らかだが、芸術呆けした巨匠の作品を平板に感じさせる彼のオーパーツのような作品群が自明の命題にほんの少し手を加えたにすぎない、という驚きにある。そしてこれは、セザンヌが出る前はマネーでもクールベでも良かった、あの時代の価値の転換と重ねて論じられそうな事柄でもある。その落差を二十億光年の孤独と感じた少年の自負は衒いや傲慢さゆえではなく、至極当然のことであった。
あの青い空の波の音が聞こえる
あたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった
「かなしみ」
このように表現された<かなしみ>がかってあっただろうか。言葉の質に止まらず、既存の美意識の息の根を止め、意味そのものまで変えてしまう恐るべき詩人の生理がここにある。
十八歳
私は時の何かを知らない
「生長」
いみじくも詩の原点に立ち至った彼は新しい時代に相応しい書き手として唯、書きに書く。
もう一度反省
そして
もう一度音楽
こうして誰の手も借りず、相も変わらず自分自身を推敲する一人ぼっちの地球にはいつも
颱風が近づいている
「常に」
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