本書は心中未遂で親に勘当され、世間に顔向け出来なくなった男の、幾分は投げやりな自叙伝風の物語である。これ程明け透けで臆面のない叙述も珍しい。大抵の読者は逆に警戒感を抱くに違いない。その上、羽目を外したトンでもない醜態ぶりである。付かず離れず、は物書きのスタンスだが、これは又、なんと凄まじい自意識過剰ぶりであろう。或いは、エディプス・コンプレックスによる本物の女色とはこんなものかも知れない。結局のところ、道化が神であって、素顔が仮面と言う、性懲りもない行動パターンは、どちらにせよ自堕落な生活に逃げ込むしかないようだ。主人公の冒頭の一言、「恥多い生き方をしてきました」には、この作品の全重量を掛けても釣り合わぬ感慨深さがある。
水緩めども、世間の風寒し、である。
それにしても、飲んで愚か、覚めては卑屈の、この男の救いようのなさはどうであろう。白痴に他者依存の本心を見抜かれて狼狽する場面があるが、ここで主人公は、この日陰者と奇妙な連帯意識を持つに到る。これが物語のもう一つの中心となって、二重の惧れを抱く耽溺者のやり切れない信仰告白が連綿と綴られることになるのだが・・・。
かたや、「やさしさは<罪>のシノニムで、<父>のアントニム」等と、インテリの衒いが、言葉遊びに箔をつけ、同僚を煙に巻く。しかし、生の現実が教養主義の鞘に納まる筈はない。それは、不安と焦りで焼け焦げたパンのように皿に盛られたまま、手を伸ばせばすぐ届きそうな処にある。片側にジャム、片側にバターを擦り付けられて。
<しかし、ただ、一夜でした。朝、眼が覚めて、はね起き、自分はもとの軽薄な、装えるお道化になっていました。弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられることもあるんです。傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした。>−これが謂わばパンの片側で、女の世界。
残る片側が父の世界で、こんな具合である。<けれども、自分には少しの不安もなく、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、ああ、自分はどうしてこうなのでしょう。罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ちついて、その時の追憶を、いま書くに当っても、本当にのびのびした楽しい気持になるのです。>
天下一品の倒錯ぶり、まさに神業ではなかろうか。
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