アンドレ・マルローの「人間の条件」は啓蒙精神に貫かれた王朝風ロマンを感じさせる統治形態が背景にあるが、ハンナ・アレントの場合はより複雑精緻で実践的なマルクス以降の社会哲学であって、哲学の究極が形而上学でないことをこれほど如実に語るものはない。虚構と現実の混同は理想主義的な変革からは程遠い夢想の世界であり、社会科学も適応を誤ると自由主義者と同じ轍を踏む。迂闊にも<社会>と二度発語したが、複合名詞や形容句の如何を問わず尋常ならざる普通名詞であることをまずもって銘記するのでなければアレントの文脈は辿れない。
ギリシア・ローマ時代から中世暗黒時代を一跨ぎしてルソーの近代精神を手懸りに現代社会に言及する。古代哲人の定義によるとプライバシーは<剥奪>で公共精神の欠如、しかも実体は特権的な官僚による寡頭政治の支配下にある家族のことである。このポリス社会では功名心とは無縁な末端分子は組織化を断たれている。いわゆる脱中世のルネッサンスが何を意味するかは個の自覚において論じられなければならないが、表向きは古代回帰でも、その内実は逆立ちしたポリス社会と言えなくもない。支配者は多いほど質的に低下するものであり、独裁の対極にある民主主義は無人支配だが、勿論、無支配状態ではない。利害対立とまともに向き合う経済先行政策が身分制度を解体したものの人間性の回復はより困難となった。現代という前代未聞の怪物的な公私混同社会にメスを入れることでロジックを展開し「人間の条件」を明確にする、これがアレントの基本的スタンスである。
経済学に端を発する社会科学も最新の行動科学で総括されヒト科生態圏に広域化されて論じられるようになってからは、結果的に「人間の条件」は微細な生活心理に解体され、普遍項目に組み込まれて行動基準となり、個としての活動を阻まれる。無思慮・無定見ではないにせよ、画一的な行動様式が生活全般を支配するだけとなる。この人間の尊厳性の瓦解は何故、起こったのか。ハイデッガーの虚無の深遠に危険な毒蛇が巣くっていることを敏感に察知して、師敵対行為をとらざるを得なかったアレントは、ナチズムの忌まわしい迫害により民族間の確執に触れ、この問題を解消すべく自由の国アメリカに渡っている。穏健なジャーナリトで民衆活動家でもある彼女だが、フェミニストの狭窄を警戒しつつ、覇権主義でなければユートピアという悪しき風潮を払拭してグローバルな人権主義を提唱する往年の勇姿には新ルソーを髣髴とさせるものがあった。
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