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日付:

2011/12/27

タイトル:
人間中心主義の「日蓮本仏論」を求めて
著者:

松戸行雄 

出版社:

みくに書房

書評:

 

 祖師の神話化と本尊の物神化は信仰母体の内部強化と勢力拡張になくてはならないものだが、その内実の信憑性は兎も角として宗門中枢の権力維持には恰好の隠れ蓑となっていた。しかし、今や巨大組織と化した教団である。活力の源泉でもある生身の求心力には自ずから限界があり、聖性の牽強付会を余儀なくされたため、指揮系統の混乱と教義上の矛盾を抱えこむこととなった。この宗門・信徒間の確執による内部抗争は熾烈を極め、日顕宗VS池田教の頂上対決で破局を迎えた。それにつけても七百年に喃喃とする宗門の存続に拘わる一大事である。単なる野心家の天下取りや喧嘩両成敗で幕を降ろしたのでは元も子もあるまい。信徒の造反による教団破壊であれば破門が正当化され、法主の思い違いに過ぎなければ獅子身中の虫となって僭主増上慢の誹りを免れまい。しかし一方の責に帰したところで問題の解決とはならず、事態の混迷は深まるばかりであろう。又、万人周知の出来事が有耶無耶にされる筋合いもない。将来を嘱望された仏教学者でもある著者は悩める一信徒としてこの難問解決にあたった。

 哲学的であれ倫理的であれ、本書の狙いは教義の荘厳化ではなく、内得信仰の正当化にある。もしかしたら宗教改革者・ルターのプロテストに比肩しうるばかりか、西欧合理主義精神の淵源となったグノーシス流の理神論ならぬ<理信論>として評価出来るかも知れない。洋の東西を問わず反権威主義的なアイデンティティ擁立の為の闘いは時代の節目になると必ずあらわれる。何はともあれこの労作が法主絶対のカリスマ支配に叛旗を翻し史上稀に見る在家運動となった「創価ルネッサンス」の理論的支柱となることは間違いない。それにしても歴代法主の煮え切らない態度・言動を容赦なく批判し、あまつさえ中興の祖・日寛の誤りを糺し、宗門内規を根幹から揺さぶろうというのだから、覚悟のほどが知れようというもの。取分け「六巻抄」が「折伏教典」のエッセンスであり、広宣流布の原動力となったことを思えばなおさらである。著者の標榜する「人間主義」が時代のニーズに噛み合わない閉鎖的な宗門教義批判の当然の帰結であるとしても、民主主義を生地でゆく池田大作ならではの指導原理が恰好のモデルとなったことは否めない。時代の趨勢とは言え余りにも急進的な改革の煽りをうけてサバイバルの渦中に取り残された宗門側は渋々ではあるが形骸化した「檀家制度」に甘んじることとなる。

 そもそも、鎌倉時代に興隆した仏教諸宗派には釈迦仏法では救われない、という暗黙の前提がある。所謂、逆縁の対告衆向けの救済理念で末法思想と呼ばれるものだが、比叡山に学んだ英才たちの世直しモードの百花繚乱ぶりが迷いを深めたのは想像に難くない。人々は枝葉末節にとらわれ世の中の仕組みが根底から腐り始めていることに気がつかない。その盲点に屯する衆愚の怒りを燃え上がらせたのが法華経の行者・日蓮である。釈迦の教えを根底から誤り人間の本性に反する現実離れした規範となってセクト化したのが邪宗であるとして「四個の格言」が生まれた。大石寺教学の基本路線となった五時教判・五重相対・文底秘沈説等に依拠する本尊とお題目の設定により、巷間で物議を醸すこととなる日蓮本仏論だが、実際は人間宣言以外の何物でもない、というのが著者の一貫したスタンス。天台大師に体系化された十界互倶・一念三千の世界観は、衆生済度の方向付けとしては天台本覚思想を背景に本尊を対境とした唱題行によって具体化する。仏界を十界の上部構造として特定せず、<十如是>の代入による仏界即九界がさらに九界即仏界となって往還することで成仏が実現する、と言う重層的な「場」の理論である。本書はこの煩悩即菩提、娑婆即寂光土の弁証法的帰結をみごとに復元した今日的なテキストと言えよう。



 

 

 


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