正法授戒後の深刻な家庭破壊により疑心暗鬼となり、時恰もピークを迎えた観のある「宗門VS学会」抗争のスキャンダルに巻き込まれて信仰心をうしなう。人生何が転機となるかわからない、脱会時の嫌がらせに始まる種々の迫害から身を守るために次々と体験手記を発表、本書はその五冊目、オブセッション・フリーが著者のライフワークとなった。「大石寺は不思議な寺である」―これは入信当時の著者の偽らざる心境だが今も変らない。無から有を生じるとしたら、それこそ究極の創価精神、当門流のお家芸として何ら不思議はないのかも知れない。
古来、宗門教義は諸説紛々、正論たるや僧侶の頭数で割り出せる。むしろ玉石混交の論壇を離れた純真な一信徒の隠された思考にこそ学ぶべきものがあるのではないか。ちなみに著者は開祖・日興上人の八十八歳逝去の際に指名された<新六足>にスポットを当て、第三世日代こそ血脈相承人であるとして、日興・日目相伝の一枚岩を粉砕する。この説がユニークなのは、「御筆本尊」と呼ばれることから、富士本門寺秘蔵の「万年救護本尊」を、世界公布達成の際に造立する「立体本尊」の設計図と見立てたところにある。
神話と現実が背馳すれば異端視されるのは当然だが、どの史実に時が味方するのかは誰にもわからない。あくまでも<業(カルマ)>による直感的認識が舵取りする世界である。戦中は軍事政権下のどさくさに紛れて対応を誤ったとされる法主の焼身変死体、大石寺教学の草分け時代には「化儀抄」を著した第九世日有上人のレプラ羅患等、山門内の禍禍しい出来事に就いて凡夫の思量は概ね形無しである。元々が寺号を「おふいしのてら(於不以之天良)」と呼ぶ仮の弘通所である。格式に拘る代々の管主が粉飾を繰り返すことで謎を深めたとしてもおかしくはない。とにもかくにも謎が謎を呼び、威容を誇るさしもの池田御殿も化城のように消えてしまった。「見ろ、罰が当たった、前進!」―だがどういうわけか、この平成の地獄草子には夢破れて懺悔あり、と書かれてはいない。
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