素封家のお坊ちゃんで、甲斐性のない極つぶし、薄志弱行を絵に描いたような男で、妻子を抱えながら、生家に無心するばかりで一向に働こうとはしない。生まれ落ちた畳を、とんと叩けば、こいつ二段重ねのお供えの餅のようには首が転がったであろう。しかし、このシンドサ、本人以外に引き受ける者はいない。そうでもなかったら怪談である。
一体、社会人としての労働を身体的疲労で計るような、秤のようなものはない。抽象的で、場合によっては縦にも横にも手応えなしに、いきなり身を切られるような無為。だが実感として、これ程、鬼気迫るものもあるまい。詩人・尾形亀之助は、他の人が行動と呼ぶようなことは何もしなかった。生家が傾き、売り払われる事態に直面しても、まるで他人事のように、顔色ひとつ変えなかった。
問題は、風のありかを問うように、詩魂を云々すべきかどうかなのだが、どうやらこれも間違いだ。彼は確かにそこに居て、タバコを吹かし、飯茶碗も持つ。昼は「昼」と題して
昼は雨
ちんたいした部屋
天井が低い
おれは
ねころんでゐて蠅をつかまへた
と、詠うだけであり、風に吹かれて外へ出れば
はやり眼のやうな
月が
ぼんやりと街の上に登りかけた
若い娘をそとへ出しては
みにくくなります
今夜は「青い夜」です
等と嘯く。どうやら、生活実感としての風景に誰よりもキチンと納まっているのだ。これは贅沢なことではなかろうか。捨てることの難しさは、この人の場合は財産ではない。心静かに願うのは、わが身のやり場のなさから逃れ、手足を十字架として横たわることである。
また、ある時は、手鏡を割った小さな破片にすら自分の姿が写る。
太陽には魚のようにまぶたがない
昼の時計は明るい
この忌々しい一行を削り取り、彼は最後にこんな自画像を描いてみせる。
なでてみたときはたしかに無かった。といふやうなことが不意にありそうな気がする。/夜、部屋を出るときなど電燈をパチンと消したときに、瞬間自分に顔のなくなってゐる感じをうける。/この頃私は昼さうした自分の顔が無くなる予感をしばしばうける。いゝことではないと思ってゐながらそんなとき私は息をころしてそれを待っている。
「顔がない」
これより先は道がない。
みみみ
ららら
らからからから
ごんとろとろろ
ぺろぺんとたるるて
てつれとぽんととぽれ
「ある来訪者への接待」
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