本書は「オルフェウス的主題」を巡っての気侭な文学散歩、著者自身が最も得意とする文学フィールドに愛の神話がリンクして様々なバリエーションを楽しませてくれる。いきなり舞姫王太郎のまさかの登板で舞い上がるかなと思いきや、ランボーを論考の射程に持ち込み、マラルメ、リルケをしっかりと身請けしてポエジーの深い淵に銛を放つ。著者の名人芸は、その振幅にいささかの狂いも歪みも生じてはいない。「詩」の本家争いを反故にして、「愛」の普遍項目に夫々のテクストを代入することで根源的な解を得る、といった手法である。
天が下に新しきものなどありはしないのだから、現代詩などと肩をいからせたところで、その辺の事情は同じ。そもそも戦略的にみてどんな有効性があろう。しかるに著者は「まだ語るべきことがある」かのように余白にくっきりと形而上学の影を落とす。元々、「オルフェウス的主題」は詩歌本来の根に触れるものであり、詩はアイオロスの最も感じやすい弦なのだから、四方山話をかき集めるだけで、軽妙洒脱な詩人の手にかかれば、これこの通りの出来栄えとなる。宮沢・天沢・入沢と三つの沢渡りのあとに、切り立つ断崖、吉増剛造のきりりとした絶句が宙に浮く。抒情の糸が切れ、詩が何物でもない何かであることを、マラルメの片言壮語に倣って強弁したものであろう。
おお
ギターをたたきつけろ、砂浜に
ビートルズ・オルペウス・魂のハルモニア
その「魂のハルモニア」たるや思わず聞いて慄然となる。次のようなフレーズの三度に及ぶ畳掛けなのだから・・・。
あざやかなるかな朝鮮、オルペウス
あざやかなるかな朝鮮、オルペウス
あざやかなるかな朝鮮、オルペウス
いやはやお見事。著者の今日只今の苦渋は根こそぎ乗っ取られ、弁舌爽やか風に運ばれて虚空詣でと相成った。
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