− おいでよ、ヴァイオリン。
詩人・加藤郁也の白鳥の歌の一節。極道ならではのいなせなセリフである。同じ極道でも煮ても焼いても食えないのが、池田大作。自己貫徹はまさに団子の串刺し、止せば良いのに、百萬個を棚に積み上げた。ブーイングをぐつぐつ煮込み、蓋をあけるや大喝采、姑息な錬金術を身につけて、魔女の洞窟から現れる。
ポスト戸田をめぐる争いは熾烈を極めた筈である。権力の座は、そこに至ったと同じ理由で、あっけなく失脚する場合もある。自分の名誉の為なら何でもあり、の池田のことだ。急拵えの自己神格化には非合法な手口もあったろう。ともあれ、名は体を表す。太作改め大作となり(いっそ駄作であれば、落ち着きも良かろうのに)、就任するや否や、カエサルもどきの終身制だ。
本書は露悪本にしては珍しく粗悪本ではない。買占められて焚書の顛末も充分考えられそうな中身である。発刊当初は言論弾圧事件のほとぼりが、まだ冷めやらぬ頃だ。池田の体制固めもほぼ完璧で、恐らく命がけであったことだろう。悪行と良心は時代の夜を同衾している。
時代の必然、歴史の必然、そのどちらとも決めかねる時、人は大きなものに目を奪われがちである。場合によっては粗大ごみでしかない「幸福製造機」。誰でもよい、一度、撥で叩いて見給え。へんに音が高くはないか。それもその筈、上行菩薩の授記も何処へやら、自己満足が精一杯の空き樽なんだから。
飴と鞭を使い分け、女子どもを騙すように、日本列島にお題目の花を咲かせたまではよい。が、ここ一番と言う時に画竜点睛を欠く。かれこれ、40年を経た現在、日蓮正宗・創価学会は僧俗和合に完全な破綻を来たして離山、ゴーレムかゾンビか、と言った有様である。友人葬で砂漠化した呪術の儀式に諸天の加護はない。声明は出家のパスポートだが、幹部の身勝手な読経が闇雲に充満するだけだ。第二代会長・戸田城聖の急逝によって、さしもの大集団組織も第六天の魔王に乗っ取られたかな、と察するに余りある、そんな緊急事態が続いている。
「彼を<偉人>と仰がねばならなかったのは、まさしく時代のもつ散文性の悲劇にちがいなかった。現代は大物の役柄でさえ、つまらぬ管理的な小物にしかつとまらぬ時代かもしれない。後世が彼を記憶しているなら、皮肉をこめて、この時代の貧しさと低俗性が生んだのっぺらぼうの八岐の大蛇だったと評するだろうか。」
背広にネクタイの「幸福」の使者はまだ他にも居る。本書のあとがきにあたる、この感慨深い記述は、平成不況の今日、さらに重みを増すばかりだ。「あばよ人生、おいでよヴァイオリン」、諦念の弦をもう一弾きして、この勇気ある著者へのオマージュとしたい。
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