メタファーを駆使した壮麗な文体、概念の記号化による意表を突いた航海図など、アバンギャルドの神様とまで崇められたパウンドの詩は、「荒地」誕生の楽屋裏を思い起こすまでもなく、エリオット文学のレントゲン写真のようにも見えてしまう。そんな彼の創作活動が現代詩の牽引力となったことに異論を唱える者はあるまい。だが、彼の作品群がゲオルゲの古典的なスタイルを踏襲したロマンティシズムで貫かれている、と言ったらさぞや驚かれるひとも多かろう。極めて精緻な計算づくの混乱が単なる我楽多の山である筈がない。高踏派の最後の詩人が、その頂点を極めた途端に足を踏み外したのであれば、或いは幾らか辻褄が合うのかもしれない。古代は現代の眼を通してみるから古代となる。パロマ天文台が一万光年前の宇宙をありありと再現するように、パウンドの詩は一瞬の裡に三千年の歴史を抱え込む。
ちなみに「車をひく豹たちがいる」というフレーズはどうであろう。これこそ喧々諤々の考古学者なら一本取られた感のある素晴らしい表象力ではなかろうか。本書の末尾を飾る吉増剛造の作品論は陳腐で異様だが、この一行に着目するあたり、その鑑識眼たるや中々のものである。
アメリカ生まれの詩人エズラ・パウンドの経歴は尋常一様ではない。本国を敵に廻した生粋のファッシストにして、死刑を免除された狂人、しかも終身刑に甘んじたユートピアの住民でもある。これ程鮮やかな三段論法はそんじょそこらの群小詩人に当て嵌まるわけがない。20世紀の新大陸発見者として、火中の栗を拾うように、旧世界の踵を噛んだ蝮の寝藁をポエジーの火で燃え上がらせたのだ。実際のところ自己救済の効能のほどはわからない。又、愛弟子のエリオットがこの新世界の主人公であるかどうかも。だが、傑出自体があり得ないポストモダンの禁を犯すことよりも、両者が大詩人でないということの方にこそ一層の無理があるようだ。何はともあれ、どの詩作品も自家製パウンド・マジックでぐっと引き締まり、スポイルされた現実はリバウンドで醜態を曝す。手の混んだ諷刺にも拘らずさらりとしていて、これぞパロディの妙味と驚かされる。その一方、厳密な美学の要請をぎりぎり持ち堪えたゲオルゲ的修辞法はマラルメの解体劇の一歩手前で、ギリシア彫刻さながらの堂々たる風貌に時代の意匠を纏わせることにもなるのだ。
ゲオルゲ的に卓越した「淑女」と題された詩の一篇は文句のつけどころがない。
彼女は通り過ぎても血管の中に何の
ゆらめきも残さない、
そして今樹々の間を動きまわり
自ら引き裂いた大気にしがみつき、
そこで彼女が歩いた草をなびかせつつ、
持続する、
冷雨の空の下の灰色のオリーヴの葉。
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