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日付:

2013/01/04

タイトル:
ポトマック
著者:

ジャン・コクトー/澁澤龍彦(訳)

出版社:

河出書房新社

書評:

 

  20世紀は戦争の世紀、領土侵略は文化面にも現われ、詩が哲学以上に哲学となり、音楽が絵画以上に絵画となったジャンル越えの時代でもある。ジャリの「ユビュ王」と双璧をなす本書はモダン・クラシックの元祖として面目躍如の感があるコクトーの代表作。この河の名を持つ海の怪物はニューヨーク市からの贈り物でパリのとある地下室の珍獣コレクションのひとつ、わけても作者がぞっこん惚れこんだ絶品である。もとより本書には同時代のシュルレアリスト達が共有する残酷なレアリズムは微塵もみられない。どちらかと言えば時代の闇に一石を投じてミュッセやヴェルレーヌ風の感傷的な詩の弦をふるわせる、いわば遅れてやって来た浪漫派と呼べるだろう。ポトマックは貝殻や泥が吐き出す虹の中から誕生した現代のヴィーナスであって、グロテスクだからこそ詩的な輝きを佩びる時代の申し子でもある。本文中の自作デッサンの数葉は、思いいれタップリな登場人物たちの頗る奇怪な風刺画となったが、ピガモンなる男の様々な擬態のようにも思われる。おそらくこの人物こそピカソとモンドリアンが合体して出来たキュービズムの霊験あらたかな御本尊であろう。戦乱下の情報撹乱社会に於けるしらばくれた思想の氾濫に直面して、ともするとバロック風ロココなどとわけのわからぬ形容矛盾さえ抱え込みかねない様式上の袋小路では、リメークだけが頼みの綱だ。コクトーにより知性は感じられ愛されるものとなった。 

  一見、なんの脈絡もなく語られるコミカルなオムニバス物なのだが、砕いても飛び散らない不思議なダイアモンドのような結晶となって掌に収まる。とりわけ劇中劇のような、「むかし天津の町に、一羽の蝶がいた。」で始まる<蝶の寓話>はその美しい結末と相俟って作者自身の生涯の見取り図のようにも思われる。この物語によれば、主人公が一目見て忘れられなくなった珍しい蝶の羽を何とか表現したいものだと記憶を頼りに描き続け、最後の一筆を加えたところで蝶はひらひらと紙面を抜け出し、それを目撃した男は漸く安堵して息を引き取る。その間、百年の歳月が過ぎていた、そもそもパリと違って天津は恐ろしく退屈な町なのだ、と言うオチまである。このようなコクトー一流の名人芸は随所に見られ、やはり圧巻はガラス箱の中のポトマックの世にも珍しい生態観察の記述であろう。最初は咽喉と思われた肛門から、きらきら輝き出て浮遊する泡のような排泄物がデリケートに描写され、この見世物は飼育係りの半ば得意気な口上で幕が閉じられる。「この泡粒、下手に分析しようとしても、そうは問屋がおろしません。」―要するに全編これ、複雑で透明な苦笑いのボン・フランセが鏤められた湖であって、そこに老成したひとりの青年が舟を浮かべて波と戯れている、そんな長閑な桃源郷の思いに浸るのも余韻のひとつなのかも知れない。

 お洒落な哲学的なコントもあり、一見、とりとめのないジョークでしかないようだが、実は油断がならない。「今宵、ここで、自分の書斎で、生きることの複雑さを知っている僕は、なぜそのことが当時魅力を持っていたか、なぜ・・・」と問うあたり、含蓄に富んだ語り口となっている。読者は文学の垣根が崩れてなみなみと注がれた詩と散文の混濁した精妙な美酒に酔い、突然強迫観念に襲われ、めまいの底から空中になにものかを掴みとろうとして、忽ち真っ青な湖面に没することを、作者とともに体験する。そんなスリリングな書割を言い得て妙なフレーズが以下の通りである。「だから、もし僕が泣いたとすれば、友よ、それはきっと泣くことができなかったのを悲しんだせいにちがいない。」−絶対の要請に一歩も引けを取るまいとしたヴァレリーの自意識過剰の悲劇に較べたら、こちらは前方封鎖的で、その処方も幾らかはましな、レトリックで抜け道操作が可能な美意識の範疇にある。もしかしたら澁澤龍彦による名訳はデルボーがエルンストに成り代っているかも知れないが、ポエジーの通底器が働いて如何様にもなるのだとわかれば、言葉の奇術師コクトーの術中で眼を醒ますことになろう。詩作法の段階的な手続きさえ見誤らなければ、曖昧なメッセージを正確に読む取ることも不可能ではないのだ。


 

 

 


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